満洲事変
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^ 石原莞爾板垣征四郎は否定したが、極東国際軍事裁判田中隆吉の証言と、当時関東軍司令部付であった花谷正の手記という形の原稿「満洲事変はこうして計画された」(別冊『知性』昭和31年12月号)により関東軍の関与が明らかとなった。ただし、南満洲鉄道の日本爆破説の真偽を確証できないと主張するものもある(中西輝政北村稔『歴史通』2011年3月号『さきに「平和」を破ったのは誰か』)
^ 現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている
^ このとき、歯科医の小沢開作は青年連盟長春支部を動員して、付属地の日本人に訴えるとともに、日本警察官の派遣を要請した(山口重次『消えた帝国 満洲』[要ページ番号])
^ 二葉会は、「同人会」ともいい、会員は、(陸軍士官学校14期)小川恒三郎、(15期)河本大作山岡重厚、(16期)永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・小笠原数夫磯谷廉介板垣征四郎土肥原賢二黒木親慶・小野弘毅、(17期)東条英機渡久雄工藤義雄松村正員飯田貞固、(18期)山下奉文岡部直三郎・中野直三
^ 「無名会」ともいう。会員は、永田鉄山、岡村寧次、東条英機、関亀治、石原莞爾、坂西一良、鈴木貞一、横山勇根本博鈴木宗作村上啓作澄田?四郎深山亀三郎土橋勇逸本郷義夫高嶋辰彦石井正美山岡道武
^ 24糎榴弾砲は、大砲の射撃の照準を指導した後藤亨の話によれば、6発撃ったら、味方から敵が逃げ出したので撃つのをやめてくれと電話があったという。石原大佐は満洲事変の功労重砲だったと述べている(山口重次『消えた帝国 満州』[要ページ番号])。
^ 7人の課長のうち、永田、岡村、渡、東条、磯谷の5人が一夕会の会員であり、重藤は桜会の会員で、今村は永田の意向で8月の人事異動で作戦課長に就任した。
^ 戦後、現代史家の秦郁彦(元日本大学法学部教授)が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしたものである。花谷中将の証言は秦が整理し、後に花谷正の名で月刊誌『知性別冊 秘められた昭和史』(河出書房)で発表し大反響が出た。後に、秦が事件に係わった他の軍人の聴取内容からも花谷証言の正確性は確認されている。(詳細は秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考。)
^ 関東軍は、9月18日、事件直後、奉天総領事館やマスコミに発生地点名を意図的に「柳条溝」として流し、満鉄の記録でも9月19日から「柳条湖」を「柳条溝」に訂正した。しかし、本来の地名は「柳条湖」であり、しかも独立守備隊の「柳条湖分遣隊」の存在もあったので、関東軍内でもすぐに「柳条湖」に改めている。したがって、戦前にあっては「柳条湖」・「柳条溝」両方の表記が錯綜し、やがて敗戦のためにこの修正の事実が忘れられ、発生時点での報道によって「柳条溝」がいったん定着した。その後、1960年代後半に本来の発生地名は「柳条湖」であることを明示した島田俊彦の研究が現れたが顧みられることなく、その後、1981年の中国人研究者の著作発表などによって「柳条湖事件」の名称が定着していった。この経緯については ⇒山田勝芳「満洲事変発生地名の再検討――『柳條溝』から『柳條湖』へ」 が詳しい。
^ 石原はヨーロッパ戦争史の研究と日蓮宗の教義解釈から特異な世界最終戦論を構想、日米決戦を前提として満蒙の領有を計画した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第1部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。
^ 吉林は、借款による日本の利権鉄道である吉林・長春線の沿線にあり、出兵権上は一種のグレーゾーンと考えられていた(小林道彦『政党内閣の崩壊と満州事変』[要ページ番号])
^ 「昭和6年9月18日夜生起セル事件ヲ事変ト看做ス」(昭和6年9月21日閣議決定)、国立国会図書館。
^ 朝鮮軍司令官・林銑十郎の行動を昭和天皇は嘉し(実際には軍隊の移動は天皇の専権事項であり、越権は死刑もあり得る重罪である)、西園寺公望の処罰進言を退けたばかりか、後に総理大臣に任命する。
^ 坂野潤治はスティムソンによる情報漏洩がなければ当面の戦線拡大は抑えられていたと見ている。坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,101-109頁
^ 後に満洲国立法院院長となる趙欣伯は、12月中旬に奉天で「東北人民はまた張学良と彼一党を怨むけれど、ただ日本の軍隊を怨まぬのみならず、日本軍隊が張学良とその他の軍隊を殲滅して、大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝しているしだいであります」と演説した(文藝春秋昭和7年3月号、大川周明『満洲新国家の建設』)。
^ 当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致は政策決定不可能になり、総辞職するほかなかった

出典^ 山室信一、「「満洲国」の法と政治―序説」『人文學報』 1991年 68巻 pp.129-152, doi:10.14989/48355, 京都大学人文科学研究所。P.132、,PDF-P.5およびP.137,PDF-P.10脚注 5
^ 「世界史のなかの満洲帝国」宮脇淳子(PHP新書387)第八章「満洲帝国の成立」排日運動の激化
^ a b 猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.26-34
^ a b c 江口圭一「1910-30年代の日本」、pp.9-13.
^ a b c d 臼井勝美『日中戦争?和平か戦線拡大か?』中公新書 1532、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、3頁。
^ 猪木正道『軍国日本の興亡 : 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp. 73-84.
^ 不換紙幣の標本奉天票 金と物どう動く 東京朝日新聞 1926年5月30日
^ a b ソヴィエト露国の極東進出 斎藤良衛 1931年8月15日
^ a b 最近支那国際関係 斎藤良衛 1931年11月4日
^ 同書、PP.188-189
^標題:白系露人ノ策動 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074612100、東支鉄道関係一件/支那側ノ東支鉄道強制収用ニ原因スル露、支紛争問題(一九二九年)/白系露人ノ策動(B-F-1-9-2-5_4_5)(外務省外交史料館)」 pp.55-56 1929年
^ a b c d e f g 山口重次『消えた帝国 満州』[要ページ番号]
^ 東支鉄道を中心とする露支勢力の消長 下巻 南滿洲鐵道株式會社哈爾濱事務所運輸課 1928年5月
^ a b 滿蒙事情 南満洲鉄道株式会社 1930年
^ a b 満洲の主要都市を暴動化の大陰謀 撫順を中心とする中国共産党二十四名検挙さる 京城日報 1931年3月21日

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