「マンジュ」の由来については諸説あり、一般には民族信仰の対象であった仏教のマンジュシリ(文殊師利=文殊菩薩。曼殊・満殊などとも書く)によるといわれることが多い[17][16]。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、チベット仏教由来説を否定する説も提示されている。また、建州衛の首長の李満住からとったという説もある[16]。
「満洲」が地名として用いられたのは、この地域が満洲民族の故地であったことから、西洋で「満洲」の派生語(英語: Manchuria、ロシア語: Маньчжурия)を用いて呼ばれるようになったのが始まりである[18][19]。これに押されて漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を民族名ではなく地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。その説では高橋景保の「日本辺疆略図」(1809年)・「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという[19][20]。 現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」という表現が用いられる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めず、また満洲の地を太古から不可分の中国人(中華民族)固有の地としているためである。今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。民族名としても「満族」の呼称を使用している[注釈 4]。ただし、現在でも「満洲里」のように一部の地名としては用いられている。 また、中国共産党もかつては中国共産党満洲省委員会 前述の通り、元来の表記は「満洲」(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:滿洲)である。しかし、現代日本では(とりわけ満洲国に言及する際に)「満州」の表記も用いられている。これは一般的には当用漢字・常用漢字に「洲」がないためとされるが(同音の漢字による書きかえ)[17][20][21][22]、「満州」が中国の一部であるという点を強調するためと説明されることもある[23]。 また、「満州」表記が広く用いられるようになったのは戦後であるが、それ以前にも用例が無いわけではない。例えば、間宮林蔵の『東韃地方紀行』(1810年)、満鉄歴史調査室の『満洲歴史地理』第1巻(1913年)では「滿洲」と「滿州」が混用されている[24][25]。また、日本海軍の通報艦の満州は、ロシア語で満洲地域を表すマニジューリヤ(ロシア語: Маньчжурия)を改称したものであるが、大正9年8月13日の官報や昭和5年度海軍省年報では「滿州」と表記されている[26][27]。 一方で、清朝史研究者を中心に、「満州」表記は誤りであり「満洲」の表記を用いるべきという主張がなされている。その根拠は、
現代中国
日本での「満洲」「満州」表記
固有名詞であるため、別字で代替すべきでない(満/滿と異なり、州/洲は同字の新字体/旧字体ではない)。現に「八重洲」「洲本」「長洲一二」などは「洲」のまま表記されており、満洲のみ「州」に置き換えるのはおかしい[15][22][28][29]。