「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる(表記については「満洲#呼称としての満洲」も参照)。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
出典検索?: "満洲国"
清が領有していた満洲(または、外満洲)と呼ばれる地域のうち、外満洲はアイグン条約及び北京条約でロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順・大連は日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約と満洲善後条約により日本の租借地となっていた。さらに内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、義和団の乱の際には進駐して来たロシア帝国陸軍が鉄道附属地を中心に展開し、満洲を軍事占領した。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる日露戦争の後、長春(寛城子)以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本陸軍が南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。
清朝は満洲族の故地満洲に当たる東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。
1912年の清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。
また日本は1922年(大正11年)の支那ニ関スル九国条約第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928年(昭和3年)12月29日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。