満州国
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しかし歴史上満洲が支那の一部であった事実は未だ一度もなく[注釈 18]、逆に支那本土が満洲の属国であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実を教えるものであるが、その目的は一に満洲から日本の勢力を駆逐しようとするところにあったわけである」と述べている[121]

オーウェン・ラティモアは、The Mongols of Manchuria(1934年)のなかで、中国は確かに西洋列強半植民地に転落したが、同時に中国はモンゴルチベットなどの諸民族に対し、西洋列強よりも苛烈な植民地支配を強制し、無数の漢民族をモンゴルの草原入植させては軍閥政権を打ち立て、現地人が少しでも抵抗すれば、容赦なく虐殺しており、西洋列強と中国に比べて、新生の満洲国はモンゴル人の生来の権益を守り、民族自治が実現できている、と評価している[122]

近年の研究に基づくものでは、民族自治どころか日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価[123]がある。
関連項目[ソースを編集]ウィキメディア・コモンズには、満洲国に関連するカテゴリがあります。ウィキソースに満洲国に関するカテゴリがあります。
人物[ソースを編集]

工藤忠

川島芳子

笹川良一

甘粕正彦

杉原千畝

事象[ソースを編集]

満洲族南満洲(内満洲)外満洲

中央軍事博物館(ロシア)(英語版、ロシア語版) - モスクワにある同館に満洲国の御神体として祀られていた鏡が保存されている。ここにあるのは終戦の翌年シベリアに抑留された日本人から没収したもの。

九カ国条約

ワシントン体制

東四盟

満洲関係記事の一覧

消滅した政権一覧

731部隊

蒙古自治邦政府

満洲国赤十字社

塘沽停戦協定

防共協定

プレスコード

出産税

日本統治時代

萬寳山事件

間島省

間島特設隊

満洲独立運動(中国語版)

?湾子橋 - 満洲国と日本(朝鮮)を結ぶ橋で、穏城大橋と同じく断橋。

穏城大橋 - 満洲国と日本(朝鮮)を結ぶ橋で、ソ連侵攻の際日本軍が爆破したとされる断橋。

満洲国政府 (政治団体)

脚注[ソースを編集]
注釈
^ 1942年から1945年まで。それ以前は同名の別の曲だった。詳細は満洲国の国歌を参照。
^ 正式には1932年3月10日の国務院?告第1号で国都と定められた。
^ 1932年3月14日の国務院?告第2号により長春から改称。
^ 臨時首都という扱いであり、正式な首都は新京のまま。
^ 満洲国の元号は、大同1932年3月1日 - 1934年3月1日)、康徳1934年3月1日 - 1945年8月18日
^ 同事件の根底にはモンゴル人と移住者である漢人との間の土地を巡る争いがあったとされる。モンゴル人や旗の王府は襲撃を受け、モンゴル人は数十万規模でジェリム盟やジョーオダ盟北部に避難移住した[20]
^ モーゲンソー日記によれば、ルーズベルト大統領は「結局、イタリアと日本が宣戦布告せず交戦する技術を進化させてきたとすれば、なぜ我々は同様の技術を開発できないのか」と語ったとされる[24]
^ 「大日本帝国政府及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス」[12]
^ 住民台帳を利用して人口を算出したもの。
^ 調査票を集計して人口を算出したもの。
^ 「満洲国小学校教員募集ニ関スル件」昭和13年(1938年)1月14日秋田県学務部長通牒[61]
^ 在日本大使の一覧も参照。
^ バチカンの福音宣教省が派遣する教皇使節はバチカンとの外交関係がない国々にも派遣される派遣される例がある[80]
^ 当時の中国の4大石油会社の1つ。


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