1936年に開催されたベルリンオリンピックへの参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった東京オリンピックには選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である東亜競技大会が開催されている。 満洲国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満洲国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心としたハルビン交響楽団が存在したが、これに加えて日本人を中心に新京交響楽団
音楽
園山民平は音楽教育や満洲民謡の収集・研究に尽力した他、満洲国国歌を作曲した。その他、指揮者の朝比奈隆、作曲家の太田忠、大木正夫、深井史郎、伊福部昭、紙恭輔などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「寒帯林」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。
崔承喜は1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満洲、および中国各地を巡業していた[102]。 満洲国の国花は「蘭」[103][注釈 17]とされることが多いが、「蘭」は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は高粱であり[105]、1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある[106]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
祝祭日詳細は「満洲国の祝祭日」を参照
国花
現在
出典検索?: "満洲国"
満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として満洲里がその名をとどめている程度である。また、「中国共産党満洲省委員会」のように歴史的な事柄を記述する場合、満洲という言葉は変更されずに残されている。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。 「Category:満洲国を舞台とした作品」を参照。 満洲国で出生した日本における人物についてはCategory:満洲国出身の人物を参照。 中華人民共和国の歴史書や事典などでは、日本が東三省を武力侵略した後に建国した傀儡政権[107]、傀儡国家[108][109][110]とされ、その傀儡性や反人民性を示すために「偽満洲国」あるいは「偽満」と称しており、中華民国(国民党・台湾政府[108])で出版されたものでも同じである[111]。日本での見方は当然のように違い[109]、おおむね満洲国の政治実態に重点をおく「傀儡国家」論と、満洲国の政治言説の分析力点をおく「理想国家」論の二つに分類できる[112]が、また、満洲国が傀儡国家か理想国家かという二者択一の問題を重要視しない第3の歴史認識ともいうべき新たな視点が日中両国の歴史マニアの間で浮上してきた[113]とも言われている。
満洲国を扱った作品
満洲国生まれの人物
満洲国に存在した日本の株式会社「Category:かつて満洲国に存在した企業」も参照
南満洲鉄道株式会社
満洲重工業株式会社
満洲軽金属製造株式会社
満洲航空株式会社
満洲海運株式会社
株式会社満洲映画協会
満殖公社
満洲電信電話株式会社
株式会社昭和製鋼所(後の満洲製鉄株式会社)
日満商事株式会社
株式会社辰村組
傀儡国家・理想国家・第3の歴史認識