満州国
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清朝は満洲族の故地満洲に当たる東三省遼寧省吉林省黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。

1912年の清朝滅亡後は中華民国北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。

また日本は1922年(大正11年)の支那ニ関スル九国条約第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928年(昭和3年)12月29日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。

1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。

1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。元首満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就いた。満洲国皇帝・溥儀

満洲国は建国にあたって自らを満洲民族漢民族蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和王道楽土を掲げた。しかし後世においては、実質的に日本の関東軍が占領した日本の植民地であり[6]傀儡国家[7]であったとする見解が一般的である。

満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満洲鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた[8]。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

しかし1937年11月29日にイタリアが満洲国を承認[9]。続いて同年12月2日にフランコ体制下のスペイン[10]1938年5月12日にはドイツ[11]さらにタイ王国などの第二次世界大戦の日本の同盟国や友好国、枢軸陣営寄りの中立国や、エルサルバドルポーランドコスタリカなどの後の連合国の構成国も満洲国を承認した。さらに国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置した[12]。またイギリスアメリカ合衆国フランスなど国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

第二次世界大戦末期の1945年康徳12年)、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦中国国民党中国共産党が争奪戦を行い、最終的に1949年に建国された中華人民共和国の領土となっている。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。[要出典]
国名ウィキソースに国号ヲ満洲国トナスヲ?告ノ件の原文があります。ウィキソースに本国国名英文制定ノ件の原文があります。


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