湾岸戦争
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クウェートは解放され停戦協定が締結された[2]
概要

イラクは、イラン・イラク戦争を通じて軍備を増強し、ペルシア湾岸の一大軍事国家として台頭した一方、戦費調達のため多額の債務を負ったうえに、折からの原油価格の下落により石油収入が低下したことで、経済的には苦境に陥っていた[12]。この原油価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、イラクは両国を非難した[13]。一方、クウェートは戦争中のイラクに対し多額の融資を行っていたが、終戦後にその返済を要請したところ、当時のイラクのサッダーム・フセイン大統領は、これはアメリカ合衆国イスラエルがイラクを陥れようとする陰謀の一環であると考えて、対決姿勢を強めていった[12]

1990年8月2日、イラク共和国防衛隊はクウェートへ侵攻、約6時間で同国全土を制圧・占領して傀儡政権であるクウェート共和国を擁立し、8月8日にはクウェートのイラクへの併合を発表した[14]。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた[15]国際連合安全保障理事会は、侵攻同日のうちにイラクに対して即時撤退を求めるとともに、11月29日武力行使容認決議である決議678を米ソが一致して可決し、マルタ会談とともに冷戦の終わりを象徴する出来事になった。翌1991年1月17日アメリカジョージ・H・W・ブッシュ大統領アメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「多国籍軍」が構成された。これは、第二次世界大戦以来の連合であった[16]

多国籍軍ではアメリカ軍が主力をなしていたが、ほかにもイギリスフランスなどといった西側ヨーロッパ諸国のみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、更に比較的中立的な立場の国であるカタールやイラクと同じバアス党政権で東側諸国の一員であるシリアなども参加した。ヨーロッパ諸国軍はノーマン・シュワルツコフ米陸軍大将が司令官を務めるアメリカ中央軍の指揮下に入ったのに対し、アラブ諸国軍はサウジアラビア軍の作戦統制下に入り、ハリド・ビン・スルタン(英語版)中将を司令官としてアラブ合同軍を組織した[17][18]。ただしアメリカの軍事能力は他国よりずば抜けて高かったために、面子等に留意しつつも、軍事作戦に関しては全軍を実質的に統制していた[19]とされる。

国際連合により認可された、アメリカ、イギリスをはじめとする34ヵ国からなる多国籍軍は、イラクへの攻撃態勢を整えていった。その後イラク政府に決議履行への意思が無い事を確認した多国籍軍は、国連憲章第42条に基づき[20]1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。

イラクの大統領サッダーム・フセインは開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の生みの親である」と言った[21]。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれる[22]この戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年イラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた[23][24][25]

このクウェートの占領と併合を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まり、これに続いて2月23日から地上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。

空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。

戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた[26]
湾岸危機の勃発サッダーム・フセイン


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