このクウェートの占領と併合を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まり、これに続いて2月23日から地上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。
空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。
戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた[25]。 1989年11月、イラクのバグダードを訪問したクウェートのジャービル首長は、イラクに対してイラン・イラク戦争時の400億ドルの借款の返済を要請した[11]。しかし当時のイラクは、アラブ世界以外の国からの負債に対する返済だけで、毎年の石油収入の約半分に達する状況であった[11]。またアラブ世界からの負債も似たような状況であったが、イラクは、同国こそがアラブ世界をイランから守る唯一の守護神であると考えていたことから、借款の返済どころか新たな援助さえも要求した[11]。 8年間のイラン・イラク戦争を通じてイラク軍の規模は4倍となり、1988年夏の時点で、ペルシア湾岸の一大軍事国家となっていた[11]。イラク陸軍だけでも湾岸協力会議(アラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア)諸国全ての陸軍よりも3倍強力であった[11]。イラクのサッダーム・フセイン大統領は、自分には弱みがなく、湾岸地域のリーダーとして振舞えると確信していた[11]。 しかしイラクの経済的苦境は歴然としていた。イラン・イラク戦争前は外貨準備高350億ドル以上を保有していたが、戦争によって800億ドル以上の負債を抱えるとともに、経済復興に2,300億ドル以上が必要な状況になってしまい、1988年のイラクの国内総生産(GDP)は380億ドルに過ぎなかった[11]。しかもオイルショックを教訓とした世界的な省エネルギー化の流れと、クウェートなど他国の石油増産によって原油価格も下落した結果[26]、石油収入は以前の50パーセントにまで低下していた[11]。 1990年7月に入ると、原油価格は従来の1バレル当たり18ドル程度から12ドル程度にまで下落したが、イラクは、この価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦が石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、両国を非難した[12]。また、このような経済的苦境下でクウェートが借款の返済を要請してきたことについて、サッダーム・フセイン大統領はアメリカ合衆国やイスラエルの陰謀が背景にあると考えるようになっており、この陰謀論は、イラク指導部の間で広く共有されていった[11][注 1]。 7月10日の湾岸5か国石油相会議において1990年前半の生産枠の遵守が確認され、この問題も一段落着いたかとみられていたが、7月16日にはターリク・アズィーズ外相がアラブ連盟のクリービー事務総長
湾岸危機の勃発サッダーム・フセイン
イラクの経済的苦境
クウェートとの摩擦