湯浅政明
[Wikipedia|▼Menu]
その頃は単にアニメの画を描きたいというだけで演出や監督にはまるで興味がなく、アニメーターで食べて行こうと思っていた[2]動画を描き始めると「彼は自分の画を持っているから早く上げた方が良い」との会社の判断ですぐに原画に昇格となる[6][注 1]

1990年からテレビアニメ『ちびまる子ちゃん』に参加。テレビシリーズ(第一期)では本編原画に加え、初代OP「ゆめいっぱい」、初代ED「おどるポンポコリン」の作画を担当[7]。1990年の最初の劇場版では作品全体のレイアウト[注 2]、1992年の映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』では「買物ブギー」と「1969年のドラッグレース」のミュージッククリップを担当した[4][8]。後者については、原作者のさくらももこから「一見大人しそうに見えてとんでもないことを次々と思いつく」と評される[9]

その後フリーランスとなり、本郷みつる監督が声をかけてくれたのをきっかけに1992年からテレビアニメ『クレヨンしんちゃん』に参加[2]。原画や各話作画監督を担当する。1993年から始まった劇場版クレヨンしんちゃんシリーズでは、第1作目の『アクション仮面VSハイグレ魔王』から第23作目の『オラの引越し物語 サボテン大襲撃』まで途中不参加期間を挟みながら、様々な役職で関わり続けた。1作目の『アクション仮面VSハイグレ魔王』では、本郷から原画のみならず設定デザインも任された[4]。湯浅はこの時の経験がリサーチの面白さや重要性に気づかせてくれたという[10]。また彼の出したアイデアを本郷がまとめた絵コンテに従ってそのシーンの原画を描いたところ、本人的にものすごく気持ちのいい仕上がりになった[1][2]。その時感じた興奮と気持ちよさ、楽しさは子供の時以来で、それまで向いていないと感じていたアニメーションを天職に感じるようになった[1][2]。また湯浅は、『クレヨンしんちゃん』でタイプの違う演出家二人(本郷みつる・原恵一)が、各々のやり方で面白いものを作っていく姿に刺激を受けたとも述べている[1]。ただし、2023年現在、劇場映画シリーズの監督には一度も登板していない。

1994年、アニメーターの大平晋也から誘われ、OVA『THE 八犬伝 ?新章?』に参加。大平が演出を務めた第4話で作画監督を担当するが、『クレヨンしんちゃん』以外のアニメーターたちの仕事ぶりにカルチャーショックを受ける[10]。リアル系作画のアニメーターが集まった現場で、アニメにおけるリアリティとリアルな表現を目指してそこに突っ込んでいく創作意識を学んだ[11]。その一方で、クリエイターとして心ゆくまで作品を作ってみたいが、自分の能力で100%を目指せば完成させるのが難しいだろうということもわかり、コストパフォーマンスが良いベストなやり方や形式を考えるようになったという[11]
監督デビュー

1999年、プロダクションI.Gで制作された、テレビアニメ『バンパイヤン・キッズ』のパイロット版『なんちゃってバンパイヤン』[注 3]とVジャンプフェスティバル'99で上映された短編『スライム冒険記 海だ、イェ?』で初めて監督を手掛ける[13]。この時、そのまま順風満帆のアニメーター一本で行くのか、それとも演出もやって行くのかで少し悩み、結果として監督をやることを選んだ。理由は「面白そうだから」[13]

2001年、佐藤竜雄監督の『ねこぢる草』でアイデアの提供、絵コンテ、演出、設定、イメージボードと監督以外の一通りのことをやらせてもらう[8]

2004年、映画『マインド・ゲーム』で長編アニメーション監督としてデビューを果たす[13][14]。自身で脚本も手掛けたこの作品は、同年に公開された宮崎駿の『ハウルの動く城』、押井守の『イノセンス』、大友克洋の『スチームボーイ』、新海誠の『雲のむこう、約束の場所』などを抑え、その年の文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で大賞を受賞した[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:141 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef