湯川秀樹
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未知の新粒子の存在を主張する学説に対し、欧米諸国の科学者の多くは否定的であり、量子論の開拓者であるニールス・ボーア1937年の訪日の際、「君はそんなに新粒子がつくりたいのかね」と湯川を批判したという[11]日中戦争の激化に伴い欧米諸国から孤立しつつあった日本の科学者は海外からなかなか評価されなかった。しかし、中間子によく似た重さの新粒子(「ミュー粒子」)が宇宙から地球へと降り注ぐ「宇宙線」のなかから見つかったとカール・デイヴィッド・アンダーソンが発表したことで、湯川の中間子論は世界的に注目されるようになった[11][注釈 1]

湯川は1939年のソルベー会議に招かれた。会議自体は第二次世界大戦勃発で中止されたものの、渡米してアインシュタインらと親交を持った[12]。こうした業績が評価され、1940年(昭和15年)に学士院恩賜賞を受賞、1943年(昭和18年)には最年少で文化勲章受章した。太平洋戦争末期の1945年6月には、日本海軍を中心とする原爆開発プロジェクト(F研究)の打ち合わせに招請されたが、開発が本格化する前に日本は敗戦を迎えた。広島市への原子爆弾投下について解説を求める新聞社の依頼を湯川は断ったが、戦後は日本を占領したアメリカ軍から事情を聴かれている。こうした経緯を記した日記が2017年12月、京都大学の湯川記念館史料室により公開されている[13]

1947年(昭和22年)にセシル・パウエル等が実際にπ中間子を発見したことで1949年(昭和24年)11月3日ノーベル物理学賞を受賞した[14]。これはアジア人としては作家のタゴールや物理学者のチャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目の受賞者だったが、日本人として初めてのノーベル賞受賞だった[14]。ニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた[14][注釈 2]。なお、2000年に湯川のノーベル賞選考関連文書を調査した岡本拓司は、推薦状の大半が外国の推薦者から出されていた点などを挙げ、「ノーベル賞の歴史の中でもまれなほど、研究成果との関係が明瞭であるように思われる」と述べている[15]

戦後は非局所場理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には繋がらなかった。一方、マレー・ゲルマンクォーク理論については「電荷が.mw-parser-output .sfrac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .sfrac.tion,.mw-parser-output .sfrac .tion{display:inline-block;vertical-align:-0.5em;font-size:85%;text-align:center}.mw-parser-output .sfrac .num,.mw-parser-output .sfrac .den{display:block;line-height:1em;margin:0 0.1em}.mw-parser-output .sfrac .den{border-top:1px solid}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1/3とか2/3とか、そんな中途半端なものが存在する訳がない。」と否定的であった。

またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言マックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。上記のように、戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原爆開発に関与したことが確認されている。
後期妻・スミと(1954年)

1956年(昭和31年)原子力委員長正力松太郎の要請で原子力委員になる。正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが、森一久らになだめられ踏み止まった。その後も正力との対立は深まり、結局体調不良を理由に翌1957年には在任1年3か月で辞任した。

1956年(昭和31年)1月、宮中歌会始召人として臨み「春浅み藪かげの道おほかたは すきとほりつつ消えのこる雪」を詠んだ。1970年(昭和45年)、京都大学を退官し京都大学名誉教授となる。晩年には生物学にも関心を抱き、特に生命現象における情報の役割に関心を抱いた。また、江戸時代後期の思想家三浦梅園への傾倒を深めた。揮毫を頼まれると、しばしば『荘子』の「秋水」の最後の一句から「知魚樂」(魚ノ楽シミヲ知ル)と書した。

1966年にはノーベル平和賞の候補者に推薦されていたことが、ノーベル財団の公表した候補者リストにより判明している[16]

京都大学退官後の1975年(昭和50年)に前立腺癌を発症し、手術を受ける。手術により癌の進行は抑えたが、その後は自宅で療養を続けながら学術活動を行っていた。米ソ両国の緊張激化を受け、第4回科学者京都会議の発起人の一人となって1981年(昭和56年)6月、15年ぶりに開催を実現する。このときすでに健康状態が悪化しており、会議には車椅子姿で出席して核廃絶を訴えた。3か月後の同年9月、急性肺炎から心不全を併発し、京都市左京区の自宅で死去する。74歳没。墓所は京都市東山区知恩院にある。邸宅は没後40年を経て2021年9月に京大に寄付された。大学は整備し研究者や来客者向けの施設に活用を公表している。

広島平和公園にある若葉の像の台座には、湯川による短歌「まがつびよ ふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」[注釈 3]が刻まれている。
学術的業績
強い力の理論・中間子湯川秀樹(1951年)

4つの力(重力、電磁力、強い力、弱い力)(基本相互作用)のうちの強い力をどのように定式化すればよいか、当時問題になり、いろいろな試みがなされたが、成功しなかった。

湯川は、電子の200倍の質量を持つ中間子を、力の媒介粒子(ボーズ粒子)と仮定して、核力である強い力を導くことに成功した。さらに、強い力からフェルミの弱い力を導いた。中間子論は、弱い力、強い力、両方を含む理論として、当時は最も基本的な場の理論であるとみなされた。また、力を粒子が媒介することをも明瞭に示し、場を生み出す粒子という考えを定着させた。

ただし、電子が強い力を伝えるという考えをハイゼンベルクが湯川以前に提示している。しかし、電子は以前から存在が知られ、理論としても失敗だったので、場を担う粒子という考えは、確立されていなかった。ハイゼンベルクやボーアは、観察されていない素粒子で場を説明する湯川に否定的であった。ボーアは湯川に、ハイゼンベルクは朝永にこのことを告げている。

以上の理由で、湯川の、強い力を生み出す中間子論は素粒子論の扉を開いたと、当時評価された。湯川は、強い力の中間子論でノーベル賞をもらったが、これに驚き、自身のこれ以後の仕事を、場の量子論で自ら見出した問題の解決に力を注いだ。しかし、この研究は成功しなかった。
因果律の破れの提起
超多時間論と非局所場?湯川の丸

ミンコフスキー空間上での閉曲面での確率振幅を定義すると、因果律が破れると言う問題を湯川は提起し、この問題に生涯をかけた(この問題を湯川の丸○と言う。湯川がこの問題を提起後、ディラックも同じ問題を提起している)[注釈 4]

朝永の寄与はあったが、この問題はいまだに解決されていないと超対称性を世界で最初に提起した宮沢弘成は主張している。物理学は湯川の基本問題を回避して、現象論に走ったと。

湯川以前は一定時間で確率振幅は定義されていた[17]
師匠・弟子・同僚および関係者京都大学基礎物理学研究所(湯川記念館)前にある湯川の胸像
ここでは国内での著名な人物を挙げる。


岡潔:多変数複素関数論の建設者で、圏論の基になる概念を示す。湯川や朝永は授業を聞き、非常に刺激的だったと述べる。難問は条件を付けず、一気に解かねば解けないと主張。

素粒子物理学


朝永振一郎:同期。互いに刺激を受け、研究面でも密接な関係があり、ライバル。業績は、超多時間論、繰り込みなど多岐にわたる。強い力(中間子)の現象論的な式を湯川に述べる。

小林稔:湯川秀樹博士の中間子論建設に協力する。湯川記念館、基礎物理学研究所の設立、英文論文誌 Progress of Theoretical Physics 創刊に尽力。

坂田昌一:2中間子論、無限発散を防ぐC中間子、坂田モデル(クォークの原型)、2ニュートリノ。

谷川安孝:2中間子論の原案を提唱。

武谷三男:3段階論で、方法論を活発に論じる。南部陽一郎が武谷方法論に影響され、データからモデルを創るという方法を取るようになるなど、多くの影響を与えた。


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