前身は1968年に栃木県で発足した藤和不動産サッカー部(フジタSC)で[1]、1975年にフジタ工業サッカー部に改称した[1]。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)1部へ昇格[1]、1977年JSL初優勝。以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回を果たした。1992年10月、運営会社としてフジタが全額出資する株式会社フジタスポーツクラブが設立され、チームの愛称を「湘南ベルマーレ」とした。
1993年、Jリーグ準会員に承認。ベルマーレ平塚へチーム名を変更した。同時に運営会社の商号を株式会社ベルマーレ平塚へ変更し、地元企業・団体などが出資(1996年に株式会社湘南ベルマーレ平塚へ商号を変更)した。1993年のJFL1部で優勝、スタジアム問題もクリアして、Jリーグ入会が承認された[1]。
1994年 - 1999年(Jリーグ)中田英寿
1994年
Jリーグ加入前から監督を務めていた古前田充とヘッドコーチのニカノールの二頭体制の下、超攻撃的サッカーを標榜したが、サントリーシリーズは全クラブ最多の54失点を喫して12チーム中11位の成績。そこで、それまで左サイドバックを務めていた岩本輝雄をオフェンシブハーフにコンバートし、左サイドバックには公文裕明を起用。これが功を奏し、ニコスシリーズは得点が全クラブ最多タイの48、失点が全クラブ最少タイの26と攻守共に安定し、V川崎と1勝差の2位に躍進し、湘南の暴れん坊と呼ばれた。また、天皇杯は決勝でC大阪を破り、初優勝した。田坂和昭が新人王、ベッチーニョおよび名塚善寛がベストイレブンを受賞した。
1995年
中田英寿が入団。シモン加入後のニカノールによる中盤の底に3人のMFを置くスリーボランチを採用。サントリーシリーズは全クラブ最多の60得点を挙げ、7位とまずまずの成績を残したが、ニコスシリーズは一転不振に陥り、8月末にニカノールが解任されると、第18節限りで古前田も辞任。残り試合はサテライト監督を務めていた植木繁晴が監督代行を務めたが、14チーム中最下位に終わる。それでも最後はアジアカップウィナーズカップで優勝した。
1998年
1998 FIFAワールドカップ日本代表としてGK小島伸幸、MF中田、FW呂比須ワグナー、同韓国代表としてDF洪明甫の計4人が選出された。W杯終了後、中田がイタリア・ACペルージャへ移籍。この年に姉妹クラブで日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)のフジタサッカークラブ・マーキュリーが廃部した[7]。
1999年
メインスポンサーのフジタが経営再建のためスポンサーから撤退[7]。また、小島、野口幸司、名塚、田坂、公文裕明、岩元など主力が退団(岩本輝雄、名良橋晃、ベッチーニョ、アウミール、渡辺卓は1998年1stステージ以前に退団)。J1リーグ戦は1st・2ndステージ共に最下位(年間4勝)に終わり、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ降格した。12月にフジタが株式会社湘南ベルマーレを新たに設立しクラブの営業権を同社へ移すと共に、同社株式を平塚市などの湘南ベルマーレ平塚の株主に譲渡した。一方でフジタは湘南ベルマーレ平塚の全株式を買い取った。なお、湘南ベルマーレ平塚は2004年11月22日の臨時株主総会決議により解散した[8]。 チーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称[1]。ホームタウンを平塚市1市から厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、平塚市、藤沢市、中郡大磯町、二宮町および高座郡寒川町の神奈川県の7市3町へ変更・広域化した[1][7]。
2000年 - 2009年(J2)
2000年