渥美清
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代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。

没後に国民栄誉賞を受賞している[1]
生涯
幼少期

1928年3月10日(土曜日)、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、地方新聞新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる[2]。兄に健一郎がいる。

1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎[3]、膀胱カタル等の様々なを患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

1940年に板橋城山高等小学校[注釈 1]に入学。第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる[4]。堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている[5]。旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた[6](親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家[注釈 2]に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと[8]
役者稼業映画評論』1963年2月号より。

進学についても異説があり(下記「人物・経歴についての異説」参照)、10代のころは船乗りを志しその中でも司厨員志望で大日本船舶運営会へ願書まで出したが[9][10]、母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。芸名については諸説あり、当初の芸名は小説の主人公からとった「渥美悦郎」であったが、川崎で小さな劇団の「パンツの臭いを嗅ぐ男」というバラエティショーに出たとき司会者が「渥美清の方が名前が通りやすい」と変えてしまったという[11]。また「清く美しくあっ(渥)たかくあれ」という意味で名づけられたという説もある[12]

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て[3]、『阿部定一代記』[注釈 3]でのチョイ役で舞台初出演[14]1951年、東京浅草六区ストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる[11]。2年後の1953年には、フランス座へ移籍[15]。この頃のフランス座は、長門勇東八郎関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。(後述参照)。1954年肺結核右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る[16][17]。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった[18]。退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する[19]。再復帰後は煙草コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた[20][21]

1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演[3][22][23]1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成[3]。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1961年、井上和男監督の『水溜まり』で倍賞千恵子と初共演している[24][25]1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子森川信との共演である。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢岩下志麻丹波哲郎三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる[注釈 4]。特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという[26]

1969年3月17日(月曜日)、正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げる[27][28][29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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