渥美勝之
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勝之には正室留天姫との間に6人の子供がおり、長男は夭折していたが、事件当時、長女は旗本の嶋田甚五左衛門に、次女は旗本の長田宇右衛門に嫁いでいた。事件直後、残る三人の娘は母の留天姫と共に江戸藩邸の一室に押し込めとなり、翌8月に国元の西条に送り返された。留天姫は、正徳元年(1711年)5月13日に死去した。享年41。後に三女は西条藩士の伊達善右衛門に、四女は紀州藩士の宇佐美多右衛門に、五女は西条藩士の妻木平之丞に嫁いでいる。


寛政6年(1794年)12月8日、当時の紀州藩主徳川治宝の命で、本家渥美勝政の次男の政要が勝之の家督を相続し、家名が再興された。治宝は勝之に止めを刺した頼致(徳川宗直)の曾孫である。
脚注^ 小山、2011年

参考文献

南紀徳川史

小山誉城「徳川宗直の藩政」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)

演じた人物

松橋登八代将軍吉宗」(NHK大河ドラマ、1995年


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