渡辺錠太郎
[Wikipedia|▼Menu]
軍事史家の横山恵一と原剛は、小学校中退のみの学歴で大将に親任されたのは渡辺が唯一の例であろう、と述べている[3]

生前の渡辺は、愛知県に帰省すると小学校で講話をするのが常であった[1]。貧家から身を起こし、陸軍大将・教育総監に栄進した立志伝中の人物として地元の青少年に大きな影響を与え、「渡安会」という団体が結成される程であった[1]

家族

子:渡辺恭二
(陸士57期、陸軍中尉)[2]

次女:渡辺和子カトリック修道女、ノートルダム清心学園理事長)[2]

弟:和田庫吉(陸士20期、陸軍歩兵少佐)[2]

年譜

[2]

1894年4月[2][4]徴兵検査を受け、甲種合格[4]
1894年[5]8月[2][4]陸軍士官学校の召募試験に合格[4][5]
1894年12月[2][4][5]士官候補生[2][4][5]歩兵第19連隊[4][5]
1895年7月陸軍士官学校入校(8期)。
1896年11月陸軍士官学校卒業。
1897年6月陸軍歩兵少尉に任官、歩兵第19連隊付。
1899年11月陸軍歩兵中尉に進級。
1900年12月陸軍大学校入校(17期)
1903年12月陸軍大学校卒業(首席)、陸軍歩兵大尉に進級、歩兵第36連隊中隊長
1904年7月より9月日露戦争に出征、負傷。
1904年10月大本営参謀
1905年9月兼 山縣有朋元帥付副官。
1906年清国出張。
1907年ドイツ駐在。
1908年12月陸軍歩兵少佐に進級。
1909年5月ドイツ大使館付武官補佐官。
1910年6月参謀本部部員。
1910年11月兼 山縣有朋元帥付副官。
1913年1月陸軍歩兵中佐に進級。
1915年2月歩兵第3連隊付。
1916年5月参謀本部外国戦史課長。
1916年7月陸軍歩兵大佐に進級。
1917年10月オランダ公使館付武官
1919年10月参謀本部付(欧州駐在)。
1920年8月陸軍少将に進級、歩兵第29旅団長
1922年9月参謀本部第4部長。
1925年5月陸軍中将に進級、陸軍大学校長。
1926年3月第7師団長に親補される。
1929年3月陸軍航空本部長。
1930年6月台湾軍司令官に親補される。
1931年8月陸軍大将に親任される。軍事参議官に親補され、陸軍航空本部長(再任)を兼ねる。
1935年7月更迭された真崎甚三郎大将の後任として教育総監に親補され、引き続き軍事参議官を兼ねる。
1936年2月26日二・二六事件杉並区上荻窪の自邸を襲撃した反乱軍に殺害される。61歳没。

栄典
位階


1897年(明治30年)10月15日 - 正八位[13]

1899年(明治32年)12月26日 - 従七位[14]

1916年(大正5年)8月10日 - 従五位[15]

1920年(大正9年)9月10日 - 正五位[16]

1927年(昭和2年)7月1日 - 正四位[17]

1927年(昭和2年)7月1日 - 従三位[18]

1933年(昭和8年)8月1日 - 正三位[19]

1936年(昭和11年)3月1日 - 従二位[11]

勲章


功五級金鵄勲章[11][20]

勲一等[11][20]

1934年(昭和9年)2月7日 - 加授 旭日大綬章[20]

1936年(昭和11年)2月26日 - 加授 旭日桐花大綬章[11]


脚注
注釈^秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版, 東京大学出版会、2005年)」の「渡辺錠太郎」では「明治27年4月に徴兵で陸軍に入営し、同年8月に陸士に合格し、同年12月に士官候補生となった」旨が記されている[2]。本記事では、より詳細かつ具体的な記述のある渡辺の伝記「岩井秀一郎 『渡辺錠太郎伝 - 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』(Amazon Kindle版、 小学館、2020年)」の記述に拠った。

出典^ a b c d e f g “渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう)”. 愛知県総合教育センター. 2019年7月19日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2019年7月19日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k 秦 2005, p. 174, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-渡辺錠太郎


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef