フリーアナウンサーの「渡辺恵理」とは別人です。
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わたなべ えり
渡辺 えり
本名渡辺 えり子(わたなべ えりこ)
別名義渡辺 えり子
生年月日 (1955-01-05) 1955年1月5日(69歳)
出生地 日本・山形県山形市
身長160 cm
血液型O型
職業女優、演出家、劇作家、作詞家
ジャンル舞台、映画、テレビドラマ
活動期間1978年 -
配偶者土屋良太(1996年 - 2019年)
事務所ファザーズコーポレーション
公式サイト ⇒公式プロフィール
渡辺えりオフィシャルサイト
受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演女優賞
1997年『Shall we ダンス?』
優秀助演女優賞
1995年『忠臣蔵外伝 四谷怪談』
その他の賞
日本映画プロフェッショナル大賞
特別賞
1994年『忠臣蔵外伝 四谷怪談』TAMA映画祭
最優秀作品賞
2020年『海辺の映画館―キネマの玉手箱』岸田國士戯曲賞
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渡辺 えり(わたなべ えり、1955年〈昭和30年〉1月5日 - )は、日本の女優。演出家、劇作家、作詞家、日本劇作家協会会長。2022年よりファザーズコーポレーション所属[1]。本名および旧芸名は渡辺 えり子(わたなべ えりこ)。 山形県山形市村木沢出身で、5歳のときに同市美畑町に転居[2]。幼少期から演劇に興味を持ちはじめ、中学生のころに「将来は東京で演劇をやりたい」と思いはじめた[2]。 山形県立山形西高等学校在学中は、演劇部に所属していた[3][注 1]。高校卒業後、18歳で上京して舞台芸術学院(以下、舞芸と表記)に入学して本格的に演劇を学んだ後、劇団「兼八事務所」に参加[2]。 1978年、23歳のときに舞芸の同期生のもたいまさこらと「劇団2○○」(げきだんにじゅうまる)を結成(1980年に「劇団3○○」(げきだんさんじゅうまる)と改名)。以降、舞台作品において“作(脚本)・演出・出演”の三役をこなす。 1982年、幻児プロの『ウィークエンド・シャッフル』にて映画初出演し、1983年のNHK連続テレビ小説『おしん』へのドラマ出演など、活動の場を広げた。また同年、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞受賞[注 2]して劇作家として認められた[2]。 1996年6月9日、「劇団3○○」所属の12歳年下の若手俳優・土屋良太と東京都渋谷区の代々木八幡宮で挙式。仲人は5代目中村勘九郎が務めた。 1997年「劇団3○○」解散した後、2001年に演劇を含めた企画集団「宇宙堂」を結成(その後「オフィス3○○」に改名)[2]。 2006年4月に関東学院大学工学部客員教授に就任し、現代芸術論を担当。 2007年9月26日、芸名を「渡辺 えり子」から「渡辺 えり」に変更したことを9月27日に公表した。人形劇団結城座自主公演『森の中の海』(同年11月19日より・於下北沢スズナリ)で、作と演出を務める。客演として稲荷卓央(唐組)を迎え、人形と役者の共演を初演出する。 2008年4月1日からシス・カンパニーが所属事務所になった。同年5月10日から6月8日シス・カンパニープロデュース公演『瞼の母』(主演:SMAP・草g剛)で演出を担当した。 2016年3月1日から日本劇作家協会副会長[4]を、2018年から同会長を務める[5]。 2019年4月1日、土屋良太との離婚を所属事務所の公式ホームページで発表[6][7]した。 2021年4月12日、12年間所属したシス・カンパニーを円満退社して個人事務所「渡辺えり事務所」を立ち上げることを発表した[8]。 小学校の教員をする父、農協で働く母[5]と弟と祖母のもとで育った。幼いころは、母の実家で叔父や叔母との同居生活だった[2]。当時は父から宮沢賢治や高村光太郎の作品の読み聞かせ、祖母からは地元の民話を聞いて過ごした[注 3]。 小学校入学後、太っていたことが原因でいじめに遭い[注 4]、人と会うのが怖くなったため2年生の途中までは学校を休みがちだった[5]。2年生のときに学芸会で演じた“犬のお母さん”役を褒められ、3年生のころは担任から作文や歌を褒められた[2]。これにより自信を取り戻していじめを乗り越え、その後学級委員も務めた[2]。 中学に入ってからは、文化祭の劇で脚本と演出を手掛けるようになった[2]。またこのころ、生徒会の役員や合唱部の部長も務めた[2]。その後父から「(県内有数の進学校である)山形西高校に入ったら卒業後に上京して演劇をやってもいい」と告げられた。必死に勉強して合格したが、その途端父から「そんな約束をした覚えはない」と言われたため、高校卒業までの3年間はこれを巡って父とよくケンカになったという[2]。
略歴
人物
子供時代