渋谷
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この相模国渋谷という地名は、『吾妻鏡』治承四年八月二十六日条に「重国渋谷之館」とあるのが文献上の初出である[26]。武蔵国渋谷は、金王八幡宮別当寺東福寺宝永元年(西暦1704年)の銘がある梵鐘(区指定有形文化財)に、後冷泉天皇の御代(西暦1045年から1068年)には渋谷全体は谷盛庄と呼ばれ七郷に分かれていて、その一つが渋谷郷という名だったという伝承が見える[27]。渋谷氏宗家は戦国時代に北条氏綱に滅ぼされ、その相模国・武蔵国の所領は後北条氏の支配下におかれたが、支流である薩摩渋谷氏の諸流(東郷平八郎を輩出した薩摩東郷氏など)は薩摩の有力一門として現在も命脈を保っている。

金王八幡宮の社伝も渋谷氏由来を支持するものの、河崎氏が渋谷氏を名乗る経緯については前記とはやや異なる説を伝えている[24]。伝承によれば、秩父氏の平武綱が後三年の役の軍功で、武蔵国谷盛庄の地と河崎土佐守基家の名を賜り、寛治六年正月十五日(西暦1092年2月14日)には谷盛庄に八幡宮(現在の渋谷区金王八幡宮)を勧請した[24]。さらに、基家の子である河崎重家が、禁裏の族を退治した功で堀河天皇から渋谷姓を下賜されて渋谷重家となり、八幡宮に渋谷城を築き居城した[24]。前述の渋谷重国は、重家の子である(『畠山系図』[25])はずだが、社伝には現れない。代わりに、保元の乱平治の乱源平合戦の時代には、重家の別の息子である渋谷金王丸常光なる人物が活躍し(『平治物語』にも登場)、この半伝説的英雄にあやかって金王八幡宮と呼ばれるようになったという[24]。こちらの伝承を採用すれば、時系列としては相模国渋谷の方が渋谷氏に倣って付けられたことになる。

なお、上記とは別に渋谷氏とは全く関係ないとする説もあり、『新編武蔵風土記稿』では「塩谷の里」が由来だとされている[23][28]
交通結節点としての発展

江戸時代には、大山街道(正式名は矢倉沢往還、現在の国道246号にほぼ一致)沿いの集落として栄え、駅の西側にある道玄坂上の円山町宿場町となり、続く明治時代には花街となった。

1889年市制施行時には、渋谷は東京市の市域に含まれておらず、東京市の郊外という位置づけであった。

渋谷の谷底の部分には、1885年日本鉄道により山手線が開通した(のちの国鉄を経て、現在はJR東日本)。1911年にはその東側、都心方面寄りに東京市電が、1907年には西側に玉川電鉄東急田園都市線及び世田谷線の前身の路面電車)が接続したことから、交通の結節点として発展してゆくこととなった。以後も1927年東京横浜電鉄(現:東急東横線)、1933年帝都電鉄(現:京王井の頭線)、1938年東京高速鉄道(現:東京メトロ銀座線)と次々に新線が開通し、少しずつではあるものの、渋谷は東京郊外のターミナル駅として成長してゆくこととなる。

1932年には東京市の拡大に伴い、豊多摩郡渋谷町が東京市渋谷区となり、渋谷は東京中心部と南西部の接点としての役割をさらに強めた。

注目すべきことは、五島慶太の率いる東京横浜電鉄(現:東急)が、小林一三率いる大阪の阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)の梅田駅の手法に倣って、1934年に渋谷駅にターミナルデパートである東横百貨店(現:東急百貨店東横店東館)を設けたことである。関東では池上電気鉄道(現:東急池上線)の五反田駅白木屋1928年)、東武鉄道・浅草雷門駅(現:浅草駅)の松屋1931年)に続いて3番目、全国でも4番目となるターミナルデパートであった。それまで鉄道で渋谷に来た後に銀座上野方面へ市電やバスで向かっていた東急沿線在住の客が、渋谷の自社店舗で買い物をするようになり成功を収めた。

1938年、前山久吉の所有していた三越株の譲渡の話が持ち上がった。そこで五島は東横百貨店を三越と合併させ、東横百貨店を三越の渋谷支店にしようと考えて10万株を購入した。しかし、三井財閥の中枢企業である三越の乗っ取りを阻止するために三井銀行は東京横浜電鉄への融資を停止。三井の要請を受けた三菱銀行頭取の加藤武男も、慶應閥の牙城だった三越の買収に手を貸せば非難が向くと判断して融資を停止した。五島慶太は三井・三菱を相手に戦いを挑まねばならなくなった。もちろん資金繰りは悪化し、慶應閥に大いに顔が利く小林一三に助力を依頼したが、小林には「渋谷のような片田舎[29] の百貨店がそんなことをするのは、蛙が蛇を飲み込むより至難」と諭された、と言われている[30]
戦後の復興1952年昭和27年)、現在の渋谷スクランブル交差点から西側方向を撮影。左下隅にはベンチに囲まれたハチ公の像が見える。1960年頃、渋谷駅東口の上空から撮影。中央のドームは東急文化会館のプラネタリウム。右上から左下に斜めに横切るのは山手線

第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年5月25日、渋谷はアメリカ空軍による東京大空襲(山の手大空襲)に遭い、渋谷駅と東横百貨店が全焼した[31]

戦後には、駅前の焼け跡に闇市が形成され、特に8月15日の日本降伏後は戦勝国の中華民国の国民となった在日台湾人の武装グループが台頭して、1946年には日本人暴力団警察と衝突した渋谷事件も発生した。

その後、東京都は闇市に集う露天商の整理に取り組み始めた。飲食店の露店や屋台は渋谷駅の北、山手線の東側線路沿いに集約され、1950年に「のんべい横丁」が成立した[32]

また、1948年には戦時中の金属供出で姿を消した「ハチ公像」が再設置され、以後は渋谷西口のシンボルとして広く親しまれた。

戦後1950年代になると渋谷での復興と新規開発が進んだ。その主導権は東急にあり、1954年に東急会館(旧:玉電ビル、現:東急百貨店東横店西館(閉店))、1957年東急文化会館(現:渋谷ヒカリエ)、1965年に渋谷東急ビル(現:東急プラザ渋谷)、1967年には駅から離れた道玄坂に東急百貨店本店が設けられ、「東急の街」として発展していくこととなった。1957年には東急の子会社が運営し、かつて渋谷駅西口で物品販売をしていた露天商を店子とした渋谷地下街(しぶちか)が完成して、駅前の様相は大きく変化した。

1966年4月1日には住居表示の実施に伴い、渋谷区青葉町・美竹町宮下町・上通一丁目・同二丁目・中通二丁目・同三丁目・並木町・金王町・神宮通一丁目・同二丁目・穏田二丁目・八幡通一丁目・同二丁目・常磐松町・緑岡町の各一部が、「渋谷一丁目?四丁目」に町名変更された[33]


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