渋谷
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

なお、上記とは別に渋谷氏とは全く関係ないとする説もあり、『新編武蔵風土記稿』では「塩谷の里」が由来だとされている[23][28]
交通結節点としての発展

江戸時代には、大山街道(正式名は矢倉沢往還、現在の国道246号にほぼ一致)沿いの集落として栄え、駅の西側にある道玄坂上の円山町宿場町となり、続く明治時代には花街となった。

1889年市制施行時には、渋谷は東京市の市域に含まれておらず、東京市の郊外という位置づけであった。

渋谷の谷底の部分には、1885年日本鉄道により山手線が開通した(のちの国鉄を経て、現在はJR東日本)。1911年にはその東側、都心方面寄りに東京市電が、1907年には西側に玉川電鉄東急田園都市線及び世田谷線の前身の路面電車)が接続したことから、交通の結節点として発展してゆくこととなった。以後も1927年東京横浜電鉄(現:東急東横線)、1933年帝都電鉄(現:京王井の頭線)、1938年東京高速鉄道(現:東京メトロ銀座線)と次々に新線が開通し、少しずつではあるものの、渋谷は東京郊外のターミナル駅として成長してゆくこととなる。

1932年には東京市の拡大に伴い、豊多摩郡渋谷町が東京市渋谷区となり、渋谷は東京中心部と南西部の接点としての役割をさらに強めた。

注目すべきことは、五島慶太の率いる東京横浜電鉄(現:東急)が、小林一三率いる大阪の阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)の梅田駅の手法に倣って、1934年に渋谷駅にターミナルデパートである東横百貨店(現:東急百貨店東横店東館)を設けたことである。関東では池上電気鉄道(現:東急池上線)の五反田駅白木屋1928年)、東武鉄道・浅草雷門駅(現:浅草駅)の松屋1931年)に続いて3番目、全国でも4番目となるターミナルデパートであった。それまで鉄道で渋谷に来た後に銀座上野方面へ市電やバスで向かっていた東急沿線在住の客が、渋谷の自社店舗で買い物をするようになり成功を収めた。

1938年、前山久吉の所有していた三越株の譲渡の話が持ち上がった。そこで五島は東横百貨店を三越と合併させ、東横百貨店を三越の渋谷支店にしようと考えて10万株を購入した。しかし、三井財閥の中枢企業である三越の乗っ取りを阻止するために三井銀行は東京横浜電鉄への融資を停止。三井の要請を受けた三菱銀行頭取の加藤武男も、慶應閥の牙城だった三越の買収に手を貸せば非難が向くと判断して融資を停止した。五島慶太は三井・三菱を相手に戦いを挑まねばならなくなった。もちろん資金繰りは悪化し、慶應閥に大いに顔が利く小林一三に助力を依頼したが、小林には「渋谷のような片田舎[29] の百貨店がそんなことをするのは、蛙が蛇を飲み込むより至難」と諭された、と言われている[30]
戦後の復興1952年昭和27年)、現在の渋谷スクランブル交差点から西側方向を撮影。左下隅にはベンチに囲まれたハチ公の像が見える。1960年頃、渋谷駅東口の上空から撮影。中央のドームは東急文化会館のプラネタリウム。右上から左下に斜めに横切るのは山手線

第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年5月25日、渋谷はアメリカ空軍による東京大空襲(山の手大空襲)に遭い、渋谷駅と東横百貨店が全焼した[31]

戦後には、駅前の焼け跡に闇市が形成され、特に8月15日の日本降伏後は戦勝国の中華民国の国民となった在日台湾人の武装グループが台頭して、1946年には日本人暴力団警察と衝突した渋谷事件も発生した。

その後、東京都は闇市に集う露天商の整理に取り組み始めた。飲食店の露店や屋台は渋谷駅の北、山手線の東側線路沿いに集約され、1950年に「のんべい横丁」が成立した[32]

また、1948年には戦時中の金属供出で姿を消した「ハチ公像」が再設置され、以後は渋谷西口のシンボルとして広く親しまれた。

戦後1950年代になると渋谷での復興と新規開発が進んだ。その主導権は東急にあり、1954年に東急会館(旧:玉電ビル、現:東急百貨店東横店西館(閉店))、1957年東急文化会館(現:渋谷ヒカリエ)、1965年に渋谷東急ビル(現:東急プラザ渋谷)、1967年には駅から離れた道玄坂に東急百貨店本店が設けられ、「東急の街」として発展していくこととなった。1957年には東急の子会社が運営し、かつて渋谷駅西口で物品販売をしていた露天商を店子とした渋谷地下街(しぶちか)が完成して、駅前の様相は大きく変化した。

1966年4月1日には住居表示の実施に伴い、渋谷区青葉町・美竹町宮下町・上通一丁目・同二丁目・中通二丁目・同三丁目・並木町・金王町・神宮通一丁目・同二丁目・穏田二丁目・八幡通一丁目・同二丁目・常磐松町・緑岡町の各一部が、「渋谷一丁目?四丁目」に町名変更された[33]。これらの旧町名は消滅したものの、現在も宮下公園や美竹公園、金王坂などの名称にその名残を見ることができる。
東急とセゾン系の競争

しかし郊外の一ターミナル駅に過ぎなかった渋谷が、現在のような都内有数の繁華街にして若者の街となるのは1975年以降であった。セゾングループ(当時は「西武流通グループ」)系列の西武百貨店1968年に渋谷へ進出したことを皮切りに、続く1973年渋谷PARCO開店が、今日の渋谷につながる発展の契機となった。以降は渋谷の街を舞台に、東急と西武による熾烈な開発競争が繰り広げられることになる。

1970年頃までは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば新宿であった。その一例として1969年に、当時のベトナム戦争反対運動と学生運動の高揚を背景に、新宿駅西口地下広場で展開された反戦フォークゲリラ運動がある。当時の新宿における若者文化は、そうしたカウンターカルチャーを背景としたものであった。渋谷においても渋谷暴動事件が発生した。

1970年代になると若者の街としての流行発信地が新宿から渋谷へ移動し、若者文化の歴史を大きく変えた。この影響で渋谷だけではなく、渋谷区内の原宿表参道代官山裏原宿などを含めた地域全体に大きな変化が訪れることになる。

社長の堤清二の理想主義的経営を展開したセゾングループにより、1973年に開店した渋谷PARCOは、その後は1980年代の好景気を背景に、糸井重里作の「おいしい生活」などの斬新なキャッチコピーに代表されるように、大衆文化の質自体を「消費文化」へと作り替えた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:151 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef