2020年現在の渋谷駅周辺には渋谷109・東急百貨店本店・Bunkamura・渋谷スクランブルスクエア・渋谷ストリームなど、東急グループの商業・オフィス・文化施設などが多数集積し、俗に「東急村」と呼ばれることがある。駅からやや離れた円山町・道玄坂エリアの百軒店はかつては花街であり、現在は飲食店やライブハウス、ラブホテルなどが混在する歓楽街・ホテル街となっている[17][18]。一方、円山町・道玄坂と隣接する松濤地区は高級住宅街として知られる。
毎年10月31日及び直前の週末には、仮装をした多くの若者がスクランブル交差点に集まり、日本におけるハロウィンの聖地・中心地として有名である。また、近年はそれに伴う迷惑行為や犯罪、ゴミの問題が指摘されている。2019年以降はハロウィン前後の期間でセンター街などの路上での飲酒を禁止するいわゆる「ハロウィン条例」が施行された[19][20]。
また、多くのIT企業が集積していることから「ビットバレー」と呼ばれる。一時期、渋谷のオフィスで手狭になったことでGoogleやAmazonといった大手IT企業が流出し、「IT企業の街」としての地盤沈下が危惧されたが、東急グループ主導の再開発により大規模オフィスを供給して、IT企業の呼び戻しを図っている。 新宿が甲州街道に沿って尾根筋に生まれた“山の上の街”であるのに対し、渋谷は武蔵野台地を侵食する渋谷川(穏田川)・宇田川の合流地点に作られた“谷底の街”である[21]。そのため渋谷には坂が多い。また谷両側の勾配は大変厳しく、例えば渋谷マークシティは谷底に1階の出入り口があるが、谷上部では4階からも出入りができる。 穏田川(渋谷川の上流部)、宇田川はいずれも現存しない[22]。かつては両河川の下流であった渋谷川は源流を失い、渋谷駅南東(渋谷ストリーム北端付近、旧稲荷橋地点)に始まる形になっており、自然の水流はほとんどない。 現在の行政区分では周辺に代々木、神宮前(原宿)、代官山町、南青山 (港区)等の地域がある。 桓武平氏秩父氏の庶流河崎氏で武蔵国南部に住していた河崎重国は、応保年間(西暦1161年から1163年)に武蔵国荏原郡から相模国高座郡渋谷荘までを領有することとなり、渋谷荘司と称した(渋谷重国)[25]。桓武平氏である重国は、源平合戦では初め平家に味方し治承四年八月二十三日(西暦1180年9月14日)の石橋山の戦いでも平家方の大庭景親についたが、源氏方の佐々木定綱兄弟らをかくまった縁で養和元年八月(西暦1181年9月から10月)に源頼朝に下って鎌倉政権下での所領を安堵され、その勢力範囲が確定した[25]。この相模国渋谷という地名は、『吾妻鏡』治承四年八月二十六日条に「重国渋谷之館」とあるのが文献上の初出である[26]。武蔵国渋谷は、金王八幡宮旧別当寺東福寺の宝永元年(西暦1704年)の銘がある梵鐘(区指定有形文化財)に、後冷泉天皇の御代(西暦1045年から1068年)には渋谷全体は谷盛庄と呼ばれ七郷に分かれていて、その一つが渋谷郷という名だったという伝承が見える[27]。渋谷氏宗家は戦国時代に北条氏綱に滅ぼされ、その相模国・武蔵国の所領は後北条氏の支配下におかれたが、支流である薩摩渋谷氏の諸流(東郷平八郎を輩出した薩摩東郷氏など)は薩摩の有力一門として現在も命脈を保っている。 金王八幡宮の社伝も渋谷氏由来を支持するものの、河崎氏が渋谷氏を名乗る経緯については前記とはやや異なる説を伝えている[24]。伝承によれば、秩父氏の平武綱が後三年の役の軍功で、武蔵国谷盛庄の地と河崎土佐守基家の名を賜り、寛治六年正月十五日(西暦1092年2月14日)には谷盛庄に八幡宮(現在の渋谷区金王八幡宮)を勧請した[24]。さらに、基家の子である河崎重家が、禁裏の族を退治した功で堀河天皇から渋谷姓を下賜されて渋谷重家となり、八幡宮に渋谷城を築き居城した[24]。前述の渋谷重国は、重家の子である(『畠山系図』[25])はずだが、社伝には現れない。
地理
歴史現在の渋谷区に相当する地域の歴史については「渋谷区#歴史」を参照旧渋谷町の歴史については「渋谷町 (東京府)#歴史」を参照
地名の由来(現在の神奈川県大和市渋谷および小田急江ノ島線高座渋谷駅周辺)を本貫とした武士の一族、渋谷氏宗家(相模渋谷氏)に由来する[23][24]。