渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 1983年5月19日)は、日本の編集者、児童文学作家、児童文学研究者。本名・寿三郎[1]。別名・孤星、素風[1]。 1889年(明治22年)、東京八丁堀に生まれ、まもなく浅草千束町に移る[2]。浅草尋常高等小学校に入学[2]、小学校時代、友人であった小宮山豊作
略歴
1912年(明治45年)早稲田大学文学部英文学科を卒業[1]。島村抱月の紹介で実業之日本社に入社する[3]。はじめ、1913年(大正2年)に大隈重信、渋沢栄一らによって創刊された『実業講習録』編集部に勤務するが、同社の雑誌『少女の友』に少女小説「悲しき海へ」を寄稿したのがきっかけで、1914年(大正4年)同誌へ配属された。1919年『日本少年』主筆、1921年『小学男生』主筆を歴任し、大正時代の少年少女雑誌隆盛の一翼を担った[3]。
関東大震災で『小学男生』が『幼年の友』に合併されたのを機に、1923年(大正12年)、実業之日本社を退社する[3]。以後は執筆活動に専念する[3]。1928年(昭和3年)、水谷まさる、千葉省三らの童話文学社
の同人となる[3]。同社解散後は創作のかたわら、三省堂の『書苑』や『大日本画劇』の編集に従事し、1937年(昭和12年)、前田晁、村岡花子らとともに日本児童文化協会を設立し、常務理事として児童文芸の普及に努めた[3]。のち創作を廃し、戦後は主に海外の作品や民話などを紹介した[3]。1983年(昭和58年)、94歳で死去。