渋沢敬三
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港区三田の自邸[6]の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」[7]を開設(第二次大戦中に日本常民文化研究所と改称[注 2])。アチック・ミューゼアムに収集された資料は、東京保谷にあった日本民族学会附属の民族学博物館を経て、現在は大阪吹田・万博公園内の国立民族学博物館収蔵資料の母体となり、常民文化研究所は神奈川大学に移管された[注 3]。なお三田の旧渋沢邸[注 4]は、戦後国所有になり大蔵相公邸などに使われその後取り壊しの案も出たが、1991年(平成3年)に渋沢家で執事をしていた杉本行雄により青森県三沢市古牧温泉渋沢公園[注 5]へ移設され展示されていた。現在は所有権を清水建設が買い取り(清水建設の創業二代目がこの渋沢邸を設計した)2023年に江東区へ移築し一般公開する予定。東京・北区飛鳥山公園内にある渋沢史料館[9]でも敬三の事績が紹介されている。

また、栄一没後に竜門社が企画した「日本実業史博物館」を主導し、書籍、絵画(含む広告)、器物、紙幣など近世経済史資料の収集を進めるが、戦時統制経済の影響で建築資材が集められずに挫折する。戦後も建設を模索し続けたが実現せず、収集された資料は1951年に文部省史料館に寄託、1962年に敬三自身により正式に寄贈している。

多くの民俗学者も育て、岡正雄宮本常一今西錦司江上波夫中根千枝梅棹忠夫網野善彦伊谷純一郎らが海外調査に際し、敬三の援助を受けている。他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助し、自らも民俗学にいそしんだのは、幼い頃から動物学者になりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。敬三と、柳田をはじめ多くの研究者との交友の様子は、友人でもあった岡茂雄(岡書院店主)の回想『本屋風情』[10]に詳しく記載されている。
晩年・死去

1960年、旅先の熊本にて倒れる。以後入退院が増える。1961年、東洋大学の理事に就任する。小川原湖民俗博物館開設。1963年、朝日賞受賞。東洋大学の名誉文学博士号を授与される。受賞後、体調を崩し入院。

1963年10月25日、虎の門病院にて糖尿病と腎萎縮を併発し死去。満67歳没(享年68)。
年譜

1896年(明治29年) - 8月25日に渋沢篤二と妻敦子の長男として東京・深川に生まれる[11]。 祖父の栄一から「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}敬三(けいぞう)」という名を名付けられる。

1900年(明治33年) - 祖父の渋沢栄一男爵に叙される。

1909年(明治42年) - 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)入学。深川でペストが流行ったため、三田に転居[12]

1913年(大正2年) - 渋沢家の嫡男である父・篤二が病気の為に廃嫡。祖父の栄一は敬三を後継者に指名。

1914年(大正3年) - 柳田國男と初めて出会う。

1915年(大正4年) - 4月に東京高等師範学校附属中学校を卒業すると同時期に、澁澤同族株式会社が設立され同社の社長となる。7月には仙台の第二高等学校試験に合格し、9月に同校に入学する。

1918年(大正7年) - 7月第二高等学校卒業し、9月に東京帝国大学法科大学経済学科入学。

1920年(大正9年) -祖父・ 渋沢栄一子爵に陞爵。

1921年(大正10年) -「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」 をつくる。東京帝国大学経済学部(1919年に、学部制導入時に法学部から分離独立)を卒業し、横浜正金銀行に入行。

1922年(大正11年) - 岩崎弥太郎の孫・木内登喜子と結婚。同年、ロンドン支店勤務を命ぜられ、渡英。

1925年(大正14年) - 長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団相談役(初代理事長)、MRAハウス理事)誕生。同年、栄一の体調おもわしくなく、帰国[12]

1926年(昭和元年) -栄一が高齢になったため、横浜正金銀行を退職し、家業である第一銀行の取締役、澁澤倉庫の取締役に就任。

1927年(昭和2年) -次男・渋沢紀美(夭折)誕生。

1930年(昭和5年) - 長女・佐々木紀子(佐々木繁弥と結婚)誕生。

1931年(昭和6年) - 祖父栄一死去にともない子爵を襲爵。

1933年(昭和8年) - 次女・服部黎子服部勉と結婚)誕生。

1934年(昭和9年) - 日本民族学会を設立し、理事となる。

1937年(昭和12年) - 保谷に民族学博物館を開設し、アチック・ミューゼアムの資料を移管する。

1941年(昭和16年) - 第一銀行副頭取就任。

1942年(昭和17年) - 日本銀行副総裁就任。

1944年(昭和19年) - 日本銀行総裁就任。

1945年(昭和20年) - 3月17日、貴族院議員就任[13](1946年6月10日辞任[14])。空襲により三田の自邸一部焼失。幣原内閣の大蔵大臣に就任し日本銀行総裁辞任。

1946年(昭和21年) - 預金封鎖、新円切り替え実施。内閣総辞職により蔵相辞任。高松宮家財政顧問となる。澁澤同族株式会社が財閥解体の持株会社指定を受ける。公職追放。蔵相として自ら創設した財産税のため三田の自邸物納。

1947年(昭和22年) - 妻登喜子と別居。

1949年(昭和24年) - 水産庁に水産資料館設置を進言。

1951年(昭和26年) - 公職追放解除。経済団体連合会相談役に就任。

1953年(昭和28年) - 国際電信電話(KDD)設立に伴い、社長に就任。十和田科学博物館開設。在日沖縄戦災校舎復興後援会会長。

1955年(昭和30年) - 渋沢栄一伝記資料刊行会より『渋沢栄一伝記資料』の刊行を開始する。

1956年(昭和31年) - 文化放送会長、KDD会長、日本モンキーセンター初代会長に就任。

1957年(昭和32年) - 外務省移動大使として、中南米各国を歴訪。日本電波塔株式会社設立時の取締役に就任。

1960年(昭和35年) - 旅先の熊本で倒れる。東京大学附属病院に入院、以来入退院が多くなる。

1961年(昭和36年) - 東洋大学の理事に就任。小川原湖民俗博物館開設。

1963年(昭和38年) - 朝日賞受賞。東洋大学の名誉文学博士号を授与される。文部部省史料館に寄贈した民俗資料の収蔵庫が落成。5月にその式典に出席。同年、10月25日に虎の門病院にて糖尿病と腎萎縮を併発し死去。満67歳没(享年68)。長男・雅英を始めとする家族に見守られながらの死であった。没後まもなく勲一等瑞宝章を授与される。墓所は渋沢子爵家代々の墓所がある谷中霊園(乙11-1)にある。

家族・親族父方祖父の渋沢栄一母方祖父の橋本実梁渋沢家の人々。


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