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しかし『宋書』文帝紀に『安東将軍倭王倭済』と記されており、済は讃・珍と同じ倭姓を名乗る父系の氏族だと宋の側でも認識していたのではないかとする説がある[6]。ただ、続柄を名乗らないため済・珍は同じ一族ではあるが近い血縁関係ではないとする説があり、『日本書紀』では仁徳天皇以降の王位継承における争いが見えることから、そのような王位を巡る抗争の存在可能性が指摘される[7]。また、特に珍の時代の有力王族として倭隋の存在が見えるため、当時は2つの王族勢力(百舌鳥古墳群古市古墳群)があったとして、済はこの倭隋の系統とする説がある[7]
460年記事について

『宋書』孝武帝紀の大明4年(460年)記事では、倭国の遣使を伝えるが、遣使主体の名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例として主体を済とする説がある一方[8][9]、『宋書』倭国伝の興の遣使記事との対応を見る説もある[2]
朝鮮への侵攻について

三国史記』では440年444年に倭が新羅に侵攻したと見えるほか、『日本書紀』の修正紀年でも442年に倭が新羅を討ったとするため、実際に440年代初頭に倭が軍事行動を起こしたとする説がある[7]。配下への叙任が443年から下る451年になって実施されているため、これを軍事行動の論功行賞とも、この頃にようやく済が王位を固めたとも推測される[7]
天皇系譜への比定

日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、済を允恭天皇(第19代)とする説が有力視される[1]。この説は、「武 = 雄略天皇」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づく[10][11]。記紀では允恭天皇・安康天皇が相次いで死去する伝承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」と見える記述はこれとも対応する[10]。ただし系譜以外の論証が確かでないことから、音韻・系譜の使い分けによる恣意的な比定を批判する説もある[12]

なお、記紀の伝える天皇の和風諡号として反正天皇までは「○○ワケ」であるのに対し、允恭天皇・安康天皇・雄略天皇に「ワケ」は付かないことなどから、允恭天皇以後の王統(済以後の王統)の変質を指摘する説がある[13]
墓の比定

倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群古市古墳群大阪府堺市羽曳野市藤井寺市)で営造されているため、済の墓もそのいずれかの古墳と推測される[14]。これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一説に済の墓は市野山古墳(現在の允恭天皇陵)に比定される[11]

また他の考古資料として稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の「王賜」銘鉄剣について、「王」と書くのみで自明な人物であることから、この「王」を済(または珍)に比定する説がある[15][7]。ただし稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文の「大王」とは一線を画する点が注意される[7]
済の爵号について

宋書』には、済の爵号が「安東将軍」とする記録と「安東大将軍」とする異なる記録があり、議論がある。『宋書』夷蛮伝・倭国条は、済は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に封じられ、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加号されたが、「安東将軍」は元のままとされた[16]。一方、『宋書』本紀は、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[17]。また、『冊府元亀』巻九六三・外臣部・封冊一も「(宋・文帝元嘉)二十八年七月,安東将軍倭王済,進号安東大将軍」と記述しており、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[18]

済の爵号が「安東将軍」、もしくは「安東大将軍」について、3つの解釈に大別される。
夷蛮伝・倭国条が正しく、本紀が誤りであり、爵号は「安東将軍」の元のままであるとする説(支持者:池内宏[19]宮崎市定[19]西嶋定生[19]

本紀が正しく、夷蛮伝・倭国条が誤りであり、爵号は「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:高寛敏[19]田中俊明[19]

夷蛮伝・倭国条と本紀の両方とも正しく、時間差を考慮して、まず「安東将軍」が授与され、まもなく「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:坂元義種[19]吉村武彦[20]荊木美行[20]

現在の日本では、2.もしくは3.が通説である[20]。一方、韓国では、高句麗王が「征東大将軍」、百済王が「鎮東大将軍」を得たのに対し、倭王が「安東将軍」止まりであるならば、国際的地位に大きな見解の差が生じ、高句麗王と百済王が上位、倭王が下位という優劣の序列とも解釈できるため、1.の主張がみられる[21]

朴鍾大は、以下のように主張している[22]。済は宋朝から安東将軍・倭国王として冊封を受けた後、元嘉28年には「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」として冊封された。同書(『宋書』)本紀には安東大将軍として追封されたことを記録しているが、錯誤だというのが通説である。…中国南朝が高句麗・百済・倭に冊封した爵号の序列面においても劉宋朝の場合は、高句麗は最初から征東将軍として冊封され、征東大将軍・車騎大将軍・驃驤大将軍の順序で進封されており、百済は最初鎮東将軍に冊封されたが、鎮東大将軍に進封された。倭は最初からずっと低い序列の安東将軍として冊封されただけである。同じ時期の冊封が百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず、百済を包含する韓半島南部を軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である。 ? 朴鍾大、倭の五王の上表文と韓日古代史の問題点

延敏洙は、以下のように主張している[23]ところで、済に除授された爵号が安東大将軍なのであれば、済の死後、王位を継いだ興が大明6年に除授された爵号が安東将軍であるため、前任の王よりも下位の爵号を除授されたことになる。これは中国の王朝の授爵慣例から見て、考えにくいことである。後任の王に特別な欠格事由がない限り、前任の王の爵号と同等、ないしは上位の爵号を除授するのが常例であるためである。列伝に記録されている世祖孝文帝の条によると、「倭王の後嗣である興は、累代の倭王の忠誠を受け継ぎ、外海に宋室の蕃屏をなし、天子の徳化を受けて境域を平安にし、このように丁重に朝貢してきた。今、新たに辺土を守護しているため、爵号を除授し、安東将軍・倭国王とせよ」と称頌の表現を駆使しているように、前任の王よりも下位の爵号が下される事由は見いだせない。この記事を否定しない限り、元嘉28年の倭国王済の安東大将軍説は採りにくい。…このように見ると、倭の五王の時代の倭王たちが、宋朝から除授された将軍号は安東将軍が最高の官品だったといってもよいだろう。倭国王の国際的な地位が、始終、高句麗・百済王よりも下位に置かれていたことは、宋朝側の国際認識であり、現実的な外交路線を反映しているものと考えられる。 ? 延敏洙、倭の五王時代の対外関係

石井正敏は、夷蛮伝・倭国条は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に冊封された済が、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたことを、「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。」と記しているが、その記事に済が元嘉20年に得た爵号「倭国王」が記されていないことを指摘しており、夷蛮伝・倭国条の済の任官記事「安東将軍故ノ如シ」に着目している[21]。すなわち、「(官爵号)如故(もとノごとシ)」という表現は、同じ夷蛮伝の中における高句麗王および百済王が進号・加号された場合、以前得た爵号を継承する場合、「王」号も必ず「如故」と記している[24]。一方、済の場合、「安東将軍」のみが「如故」とされ、「倭国王」は欠落しており[25]、本来は「如故」称号に「(倭国)王」が含まれていなければならないが、同じ夷蛮伝の中における高句麗王・百済王と比べて表現方法に不可解な相違がある[26]。もう一つ、夷蛮伝・倭国条の元嘉28年条の記事で注目されるのは、ほかならぬ「安東将軍如故」とあることである。『宋書』夷蛮伝や?胡伝をみると、「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称を用いるのが一般的であり、高句麗王の場合、「使持節→持節」「散騎常侍→常侍」「都督営州諸軍事→都督」「高句麗王→王」「楽浪公→公」と略称が用いられている[26]。?胡伝における楊文度の場合(元徽4年)、


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