『宋書』孝武帝紀の大明4年(460年)記事では、倭国の遣使を伝えるが、遣使主体の名前を明らかとしない。これに関して、新王の遣使ならば冊封を受けるのが通例として主体を済とする説がある一方[8][9]、『宋書』倭国伝の興の遣使記事との対応を見る説もある[2]。 『三国史記』では440年・444年に倭が新羅に侵攻したと見えるほか、『日本書紀』の修正紀年でも442年に倭が新羅を討ったとするため、実際に440年代初頭に倭が軍事行動を起こしたとする説がある[7]。配下への叙任が443年から下る451年になって実施されているため、これを軍事行動の論功行賞とも、この頃にようやく済が王位を固めたとも推測される[7]。 『日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、済を允恭天皇(第19代)とする説が有力視される[1]。この説は、「武 = 雄略天皇」が有力視されることから、武以前の系譜と天皇系譜とを比較することに基づく[10][11]。記紀では允恭天皇・安康天皇が相次いで死去する伝承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」と見える記述はこれとも対応する[10]。ただし系譜以外の論証が確かでないことから、音韻・系譜の使い分けによる恣意的な比定を批判する説もある[12]。 なお、記紀の伝える天皇の和風諡号として反正天皇までは「○○ワケ」であるのに対し、允恭天皇・安康天皇・雄略天皇に「ワケ」は付かないことなどから、允恭天皇以後の王統(済以後の王統)の変質を指摘する説がある[13]。 倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群・古市古墳群(大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市)で営造されているため、済の墓もそのいずれかの古墳と推測される[14]。これらの古墳は現在では宮内庁により陵墓に治定されているため、考古資料に乏しく年代を詳らかにしないが、一説に済の墓は市野山古墳(現在の允恭天皇陵)に比定される[11]。 また他の考古資料として稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の「王賜」銘鉄剣について、「王」と書くのみで自明な人物であることから、この「王」を済(または珍)に比定する説がある[15][7]。ただし稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文の「大王」とは一線を画する点が注意される[7]。 『宋書』には、済の爵号が「安東将軍」とする記録と「安東大将軍」とする異なる記録があり、議論がある。『宋書』夷蛮伝・倭国条は、済は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に封じられ、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加号されたが、「安東将軍」は元のままとされた[16]。一方、『宋書』本紀は、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[17]。また、『冊府元亀』巻九六三・外臣部・封冊一も「(宋・文帝元嘉)二十八年七月,安東将軍倭王済,進号安東大将軍」と記述しており、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している[18]。 済の爵号が「安東将軍」、もしくは「安東大将軍」について、3つの解釈に大別される。 現在の日本では、2.もしくは3.が通説である[20]。一方、韓国では、高句麗王が「征東大将軍」、百済王が「鎮東大将軍」を得たのに対し、倭王が「安東将軍」止まりであるならば、国際的地位に大きな見解の差が生じ、高句麗王と百済王が上位、倭王が下位という優劣の序列とも解釈できるため、1.の主張がみられる[21]。 朴鍾大 延敏洙 石井正敏は、夷蛮伝・倭国条は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に冊封された済が、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたことを、「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。」と記しているが、その記事に済が元嘉20年に得た爵号「倭国王」が記されていないことを指摘しており、夷蛮伝・倭国条の済の任官記事「安東将軍故ノ如シ」に着目している[21]。すなわち、「(官爵号)如故(もとノごとシ)」という表現は、同じ夷蛮伝の中における高句麗王および百済王が進号・加号された場合、以前得た爵号を継承する場合、「王」号も必ず「如故」と記している[24]。一方、済の場合、「安東将軍」のみが「如故」とされ、「倭国王」は欠落しており[25]、本来は「如故」称号に「(倭国)王」が含まれていなければならないが、同じ夷蛮伝の中における高句麗王・百済王と比べて表現方法に不可解な相違がある[26]。もう一つ、夷蛮伝・倭国条の元嘉28年条の記事で注目されるのは、ほかならぬ「安東将軍如故」とあることである。『宋書』夷蛮伝や?胡伝をみると、「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称を用いるのが一般的であり、高句麗王の場合、「使持節→持節」「散騎常侍→常侍」「都督営州諸軍事→都督」「高句麗王→王」「楽浪公→公」と略称が用いられている[26]。?胡伝における楊文度の場合(元徽4年)、
朝鮮への侵攻について
天皇系譜への比定
墓の比定
済の爵号について
夷蛮伝・倭国条が正しく、本紀が誤りであり、爵号は「安東将軍」の元のままであるとする説(支持者:池内宏[19]、宮崎市定[19]、西嶋定生[19])
本紀が正しく、夷蛮伝・倭国条が誤りであり、爵号は「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:高寛敏
夷蛮伝・倭国条と本紀の両方とも正しく、時間差を考慮して、まず「安東将軍」が授与され、まもなく「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:坂元義種[19]、吉村武彦[20]、荊木美行[20])