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すなわち、「(官爵号)如故(もとノごとシ)」という表現は、同じ夷蛮伝の中における高句麗王および百済王が進号・加号された場合、以前得た爵号を継承する場合、「王」号も必ず「如故」と記している[24]。一方、済の場合、「安東将軍」のみが「如故」とされ、「倭国王」は欠落しており[25]、本来は「如故」称号に「(倭国)王」が含まれていなければならないが、同じ夷蛮伝の中における高句麗王・百済王と比べて表現方法に不可解な相違がある[26]。もう一つ、夷蛮伝・倭国条の元嘉28年条の記事で注目されるのは、ほかならぬ「安東将軍如故」とあることである。『宋書』夷蛮伝や?胡伝をみると、「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称を用いるのが一般的であり、高句麗王の場合、「使持節→持節」「散騎常侍→常侍」「都督営州諸軍事→都督」「高句麗王→王」「楽浪公→公」と略称が用いられている[26]。?胡伝における楊文度の場合(元徽4年)、

(前官)寧朔将軍・略陽太守・武都王

(新除)加督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史,将軍如故。

この「将軍如故」の将軍は「寧朔将軍」を指しており、やはり「如故」とする場合は、爵号のフルネームを記さず、略称が用いられている[26]。また済が元嘉28年に除正を求めた記事には、「并除所上二十三人軍,郡。」と記すが、この記事の「除…軍,郡」は将軍号・郡太守号の略称である[26][16]。これらの例から、「○○将軍」号が「如故」とされる場合は、「○○将軍如故」ではなく、「将軍如故」もしくは「軍如故」と具体名は省略されるのが一般的であるとみなされる。すなわち、問題とする済の場合、元来略称が用いられるべきところに、わざわざ「安東将軍如故」とフルネームが使われていることに、却って問題を感じるのであり、少なくとも夷蛮伝において異例の表現であることは明らかである[27]

石井正敏は、本紀は、安東大将軍に進号した月日や「安東将軍」から「安東大将軍」に進号する、とまで具体的に記しているため、済の爵号が「安東大将軍」とする本紀の記録は信頼性があるという常識的理解のうえで、夷蛮伝・倭国条の表記の異例に注目すると、倭国条元嘉28年条の原文における誤脱を指摘しており、元来「二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,進号安東大將軍。王如故。」と記すべきものが、誤脱が生じた結果「二十八年,加使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。」と伝わった可能性を指摘している。石井正敏は、「もちろん史料原文の誤脱を安易に主張することは厳に慎まなければならないことを十分に認識している。しかしそれでもなお、この部分については誤脱を想定するに十分な理由があるように思われる」として、夷蛮伝は早くに散逸し、遠く10世紀趙匡胤宋代に補われた可能性を指摘しており、元嘉28年に済が得た爵号は本紀の通り「安東大将軍」であり、高句麗王(「征東大将軍」)および百済王(「鎮東大将軍」)と倭王に上下優劣の序列があるという主張には従えないと批判している[27]
脚注
注釈^ 句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄

出典^ a b c 倭王済(日本人名大辞典).
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^

高句麗長寿王(宋永初元年)
(前官)使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句驪王・楽浪公(新除)征東大将軍。持節・都督・王・公如故。

高句麗長寿王(大明七年)
(前官)使持節・散騎常侍・督平営二州諸軍事・征東大将軍・高句驪王・楽浪公(新除)大将軍・開府儀同三司。持節・常侍・都督・王・公如故。

百済腆支王(永初元年、※「公」は高句麗王高lと合叙されているため、「公」は高句麗王の楽浪公にかかる表記)


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