90年(後漢の永光2年)、和帝の弟の劉寿が済北王に封じられ、泰山郡が分割されて、済北国が置かれた[7]。済北国は?州に属し、盧・蛇丘・肥成・?平・剛の5県を管轄した[8]。
曹魏のとき、陳王曹植の子の曹志が済北王に封じられ、済北国が置かれた[9]。
西晋のとき、済北国は盧・臨邑・東阿・穀城・蛇丘の5県を管轄した[10]。
五胡十六国の前燕のとき、慕容泓が済北王に封じられた[11]。前秦のとき、苻昶が済北王に封じられた[12]。
南朝宋のとき、済北郡は蛇丘・盧・穀城の3県を管轄した[13]。
北魏のとき、済北郡は済州に属し、臨邑・東阿・盧の3県を管轄した[14]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、済北郡は廃止されて、済州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、済州は済北郡と改称された。盧・范・陽穀・東阿・平陰・長清・済北・寿張・肥城の9県を管轄した[15]。
621年(武徳4年)、唐が徐円朗を平定すると、済北郡は済州と改称され、済北郡の呼称は姿を消した[16]。
脚注^ 辛徳勇「秦始皇三十六郡新考」
^ 『史記』項羽本紀
^ 『漢書』高帝紀下
^ 『史記』孝文本紀
^ 『漢書』諸侯王表
^ 『漢書』淮南衡山済北王伝
^ 『後漢書』孝和孝殤帝紀
^ 『後漢書』郡国志三
^ 『三国志』任城陳蕭王伝
^ 『晋書』地理志上
^ 『晋書』慕容儁載記
^ 『晋書』苻登載記
^ 『宋書』州郡志一
^ 『魏書』地形志二中
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志一
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