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満洲人皇帝は姫君5人を全員モンゴル人の王族に嫁がせるなどモンゴルと親密な関係を保持しており[1]、后妃の選定や降嫁といった通婚は八旗の他、孝荘文皇后に代表されるようにモンゴル王侯との間で行われ、民間の漢人と行われることは決してなかった。

順位称号人数代表的な人物
1皇后1人東太后(咸豊帝の皇后)
隆裕皇太后(光緒帝の皇后)
2皇貴妃1人
3貴妃2人まで西太后(咸豊帝の貴妃)
44人まで孝荘文皇后(ホンタイジの妃)
珍妃(光緒帝の妃)
56人まで
6貴人12人まで
7常在20人まで
8答応28人まで

元号詳細は「元号一覧 (中国)#清(後金)」を参照

清は、一世一元の制踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。

順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号諡号を以って呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。
皇族の爵位

和碩親王(ho?oi cin wang、ホショイ・チン・ワン、ホショしんのう)

世子(?idzi、シヅ、親王の嗣子)

多羅郡王(doroi giy?n wang、ドロイ・ギュン・ワン、ドロぐんおう)

長子(jangdzi、ジャンヅ、郡王の嗣子)

多羅貝勒(doroi beile、ドロイ・ベイレ)

固山貝子(g?sai beise、グサイ・ベイセ)

鎮国公(gurun be dalire gung、グルン・ベ・ダリレ・グン)

輔国公(gurun de aisilara gung、グルン・デ・アイシララ・グン)

不入八分鎮国公(jak?n ubu de dosimbuhak? gurun be dalire gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・ベ・ダリレ・グン)

不入八分輔国公(jak?n ubu de dosimbuhak? gurun de aisilara gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・デ・アイシララ・グン)

鎮国将軍(gurun be dalire janggin、グルン・ベ・ダリレ・ジャンギン)

輔国将軍(gurun de aisilara janggin、グルン・デ・アイシララ・ジャンギン)

奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin、グルン・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン)

奉恩将軍(kesi be tuwakiyara janggin、ケシ・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン)

清朝皇族の爵位は通常1代ごとに降下する。特に功績がなければ親王の子は郡王、郡王の子は貝勒というように爵位が下がっていく。しかし、特に功績が大きかった皇族は世襲が認められ、爵位が降下しないことから鉄帽子王(中国語版)と呼ばれた。

礼親王(doronggo cin wang)家 - ヌルハチの第2子・ダイシャン(代善)が祖。

睿親王(mergen cin wang)家 - ヌルハチの第14子・ドルゴン(多爾袞)が祖。

豫親王(erke cin wang)家 - ヌルハチの第15子・ドド(多鐸)が祖。

粛親王(fafungga cin wang)家 - ホンタイジの長子・ホーゲ(豪格)が祖。清末に善耆川島芳子父娘が出る。

承沢親王(kesingge cin wang)家 - ホンタイジの第5子・ショセ(碩塞)が祖。後に荘親王家と改称。

鄭親王(ujen cin wang)家 - ヌルハチの弟シュルガチの子・ジルガラン(済爾哈朗)が祖。西太后の政敵粛順、鄭親王端華兄弟が出る。

克勤郡王(kicehe giy?n wang)家 - ダイシャンの長子ヨト(岳託)が祖。

順承郡王(dahash?n giy?n wang)家 - ダイシャンの子サハリャン(薩哈?)の第2子勒克徳渾が祖。

これらの8家は建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。睿親王家はドルゴンが皇位を簒奪しようとしたとして廃絶されていたが、乾隆年間にドルゴンが名誉回復したために再興された。ドルゴンに連座して同母弟ドドも郡王に落とされていたが、同様に乾隆年間の名誉回復により親王家に戻された。

清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。

怡親王(urgun cin wang)家 - 康熙帝の第13子・胤祥が祖。

恭親王(gungnecuke cin wang)家 - 道光帝の第6子・奕?が祖。

醇親王(hatan cin wang)家 - 道光帝の第7子・奕?が祖。奕?の子が光緒帝、孫が宣統帝となる。

慶親王(feng?en cin wang)家 - 乾隆帝の第17子・永?が祖。永?の孫奕?が清末に軍機大臣として活躍し、世襲王家とされた。

官制

清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。

それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院(bithe i ilan yamun)と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣(dorgi yamun)に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。

その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処(coohai nash?n i ba)を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。

中央には軍機処の他に六部(ninggun jurgan)・内務府(dorgi baita be uheri kadalara yamun、宮廷諸事)・宗人府(uksun be kadalara yamun、皇族・宗族の事務)・理藩院(tulergi golo be dasara jurgan、藩部の統括。藩部については後述)・都察院(uheri be baicara yamun、官僚の監察)・通政使司(dasan be hafumbure yamun、上奏文の検閲)・大理寺(beidere be tuwacihiyara yamun、最高裁判所)がある。

地方は皇帝直属であると藩部と満洲人の故地である旗地(満洲)とに分かれている。満洲と北京周辺を皇帝直轄地として統治したことからこの領域は中国(満洲語:ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)[5] と呼ばれた。オイラトモンゴルのジャサ・ノヤン

藩部(tulergi golo)はホンタイジが最初に南モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(monggo jurgan、もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院(tulergi golo be dasara yamun)と改名し、北モンゴル・新疆チベット青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。特にモンゴルに関しては、臣従した諸勢力は八旗制を元にした盟旗制度の元に再編成され、ボルジギン氏などの王侯をその長である「ジャサク」とし、親王などの爵位を与えその地位は旗王と同格とするなど厚遇され、清を共同統治するという形をとっている。

清初期に部隊ごと投降した明の武将孔有徳耿仲明尚可喜の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に呉三桂が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、三藩の乱後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入され、三藩の領地は皇帝の直轄領となった。

省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省安徽省山西省山東省河南省陝西省甘粛省浙江省江西省湖北省湖南省四川省福建省広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省貴州省の18である(いわゆる「一十八省」)。しかし清末になるとその数が増えることになる。省の下に府(fu)・州(jeo)・県(hiyan)がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府(fu i saraci)・知州(jeo i saraci)・知県(hiyan i saraci)と呼ぶ。省の長官は巡撫(giyarime dasara amban)と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督(uheri kadalara amban)があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。「提刑按察使司按察使」も参照

満洲人の故地である満洲地方については旗地(八旗の土地)とされ省は置かずに、黒竜江将軍(sahaliyan ula i jiyanggiy?n)・吉林将軍(girin i jiyanggiy?n)・盛京将軍(mukden i jiyanggiy?n)らに軍政を行わせて満洲人の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢人の移住を禁止して、満洲人が漢人に同化してしまわないようにした。しかし日露戦争後の1907年には黒竜江将軍を黒竜江行省、吉林将軍を吉林省、盛京将軍を奉天省とし、東三省総督を新設、しかも華北から大量の漢人農民を移民させている。
満漢偶数官制


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