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当時はすでに代の女真文字は廃れ、独自の文字を持たないため最初に作った「建国の詔」はモンゴル語で作成されたが[1]、この後金国の建国と前後して、ヌルハチ満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始するなど、女真人が発展するための基礎を築いていた。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(hong taiji、皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真人、モンゴル人漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこでの末裔で大元皇帝位を継承していたモンゴルリンダン・ハーンの遺子のエジェイから元の玉璽「制誥之宝」[2][3](本来は大官任命の文書に押される印璽である上、後に作られた偽物である可能性が高い)と護法尊マハーカーラ像を譲られ、大ハーンを継承し皇帝として即位するとともに、国号を大清に改め、女真の民族名を満洲(manju)に改めた。
清による中国支配康熙帝の時代の領土拡張詳細は「明清交替」を参照

順治帝のとき、中国では李自成の乱によって順天府北京)が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京(満洲語:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、ドルゴン(dorgon、ヌルハチの子)およびのちに成長した順治帝によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。

少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。
清の最盛期清の最大領域約1340万平方キロメートル(1790年)

順治帝に続く、康熙帝雍正帝乾隆帝の3代に清は最盛期を迎えた。

康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合し福建省に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的には清露国境紛争に勝利してロシアネルチンスク条約を結んで東北部の国境を確定させ、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下に入れた。

また、この頃東トルキスタンを根拠地としてオイラト系のジュンガル(準?爾)部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし、バルハシ湖にまでおよぶ領域を支配下に置き、この地を新疆(ice jecen イチェ・ジェチェン)と名付けた(清・ジュンガル戦争)。

これによって黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。

こうして、少数の満洲人が圧倒的に多い漢人を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、一人の君主が複数の政治的共同体を統治する同君連合となり、中華を支配した王朝の中でも特有の制度を築いた。

省と呼ばれた旧明領は皇帝直轄領として明の制度が維持され、藩部と呼ばれた南北モンゴル・チベット・東トルキスタンではそれぞれモンゴル王侯、ダライ・ラマが長であるガンデンポタンベグといった土着の支配者が取り立てられて間接統治が敷かれ、理藩院に管轄された。満洲人は八旗に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が行幸で直轄する地域を訪れる際には漢人の支配者として、藩部の支配地域に行く際にはゲルに寝泊りしてモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関係を維持した。重要な官職には満洲人と同数の漢人が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。

清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲人の髪型である辮髪を漢人にも強制し(ただしモンゴルは元々辮髪の風習を持ち、新疆では逆に禁止している)、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧する一方、科挙の存続等の様々な懐柔政策を行っている。

しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(he?en、和?)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、ヘシェンによる厳しい取り立てに住民が蜂起した白蓮教徒の乱が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた(賜死)。このとき鎮圧に動員された郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱湘軍に組織化されて曽国藩李鴻章左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命を支える組織になっていった。


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