なお、日本語での発音「しん」が、今の北京官話発音の「ちん」と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などに見られる程度である。ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。清末に締結された条約の欧文では、直接に中国の意味の「China」という国号が用いられていることが多い。
歴史
清の勃興スレ・ハンの銭。表左「s?re(聡明なる)」、上「han(王/ハン)」、下「ni(の)」、 右「jiha(銭)」とある。清朝初期の無圏点満洲文字で記されている。「天聡汗銭」あるいは「天聡通宝」と通称される。
17世紀初頭に明の冊封下で、満洲に住む女直(ju?en、以下「女真」)の統一を進めたヌルハチ(満洲語: ???????、転写: nurgaci、努爾哈赤、太祖)が、1616年に建国した後金国(amaga aisin gurun)が清の前身である。当時はすでに金代の女真文字は廃れ、独自の文字を持たないため最初に作った「建国の詔」はモンゴル語で作成されたが[1]、この後金国の建国と前後して、ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始するなど、女真人が発展するための基礎を築いていた。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(hong taiji、皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真人、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔で大元皇帝位を継承していたモンゴルのリンダン・ハーンの遺子のエジェイから元の玉璽「制誥之宝」[2][3](本来は大官任命の文書に押される印璽である上、後に作られた偽物である可能性が高い)と護法尊マハーカーラ像を譲られ、大ハーンを継承し皇帝として即位するとともに、国号を大清に改め、女真の民族名を満洲(manju)に改めた。
清による中国支配康熙帝の時代の領土拡張詳細は「明清交替」を参照
順治帝のとき、中国では李自成の乱によって順天府(北京)が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京(満洲語:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、ドルゴン(dorgon、ヌルハチの子)およびのちに成長した順治帝によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。
少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。
清の最盛期清の最大領域約1340万平方キロメートル(1790年)
順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代に清は最盛期を迎えた。
康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合し福建省に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的には清露国境紛争に勝利してロシアとネルチンスク条約を結んで東北部の国境を確定させ、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下に入れた。
また、この頃東トルキスタンを根拠地としてオイラト系のジュンガル(準?爾)部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし、バルハシ湖にまでおよぶ領域を支配下に置き、この地を新疆(ice jecen イチェ・ジェチェン)と名付けた(清・ジュンガル戦争)。
これによって黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。
こうして、少数の満洲人が圧倒的に多い漢人を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、一人の君主が複数の政治的共同体を統治する同君連合となり、中華を支配した王朝の中でも特有の制度を築いた。
省と呼ばれた旧明領は皇帝直轄領として明の制度が維持され、藩部と呼ばれた南北モンゴル・チベット・東トルキスタンではそれぞれモンゴル王侯、ダライ・ラマが長であるガンデンポタン、ベグといった土着の支配者が取り立てられて間接統治が敷かれ、理藩院に管轄された。