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満洲と北京周辺を皇帝直轄地として統治したことからこの領域は中国(満洲語:ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)[5] と呼ばれた。オイラトモンゴルのジャサ・ノヤン

藩部(tulergi golo)はホンタイジが最初に南モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(monggo jurgan、もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院(tulergi golo be dasara yamun)と改名し、北モンゴル・新疆チベット青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。特にモンゴルに関しては、臣従した諸勢力は八旗制を元にした盟旗制度の元に再編成され、ボルジギン氏などの王侯をその長である「ジャサク」とし、親王などの爵位を与えその地位は旗王と同格とするなど厚遇され、清を共同統治するという形をとっている。

清初期に部隊ごと投降した明の武将孔有徳耿仲明尚可喜の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に呉三桂が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、三藩の乱後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入され、三藩の領地は皇帝の直轄領となった。

省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省安徽省山西省山東省河南省陝西省甘粛省浙江省江西省湖北省湖南省四川省福建省広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省貴州省の18である(いわゆる「一十八省」)。しかし清末になるとその数が増えることになる。省の下に府(fu)・州(jeo)・県(hiyan)がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府(fu i saraci)・知州(jeo i saraci)・知県(hiyan i saraci)と呼ぶ。省の長官は巡撫(giyarime dasara amban)と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督(uheri kadalara amban)があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。「提刑按察使司按察使」も参照

満洲人の故地である満洲地方については旗地(八旗の土地)とされ省は置かずに、黒竜江将軍(sahaliyan ula i jiyanggiy?n)・吉林将軍(girin i jiyanggiy?n)・盛京将軍(mukden i jiyanggiy?n)らに軍政を行わせて満洲人の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢人の移住を禁止して、満洲人が漢人に同化してしまわないようにした。しかし日露戦争後の1907年には黒竜江将軍を黒竜江行省、吉林将軍を吉林省、盛京将軍を奉天省とし、東三省総督を新設、しかも華北から大量の漢人農民を移民させている。
満漢偶数官制

清の政治は圧倒的多数である漢人を少数派である満洲人がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。ポストをそれぞれ満洲人・漢人が同数になるように配置していく制度である。これには双方の動向を監視させる意味合いもあった。

清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲人だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。
兵制詳細は「清の兵制」を参照

兵制は満洲の軍制である八旗制度(jak?n g?sa)を採用していた。それを補完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは八旗の項を参照。しかし乾隆以降は長い平和に八旗は堕落し、また比率的に言うと増加する旗人の数に対して役務の数は減少し、加えて農工商業などの副業は禁じられており無役で旗地だけでは彼らは生活が難しい為、経済的にも窮迫して弱体化し、物の役には立たなくなっていた。そういった問題に対し旗人に満洲語の習得や乗馬騎射の訓練などといった「文武両道」を奨励したり、乾隆帝代には漢軍八旗の一部を民籍に移す「漢軍出旗」や、満洲旗人を満洲に帰す政策がとられたが失敗している。

その後白蓮教徒の乱苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は緑営に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。

その後の太平天国の乱に際しては湘軍淮軍といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では曽国藩李鴻章といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を始めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。
清の行政区画.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}嘉慶二十五年(1820年)の行政区画光緒三十四年(1908年)の行政区画

清は各地の支配者の臣従を受け同君連合となり、その領土は広い上、各地域の差も大きく、多数の民族を含み、その間柄も良好とは言えなかったため、行政の区割りは画一的な物でなく「因時順地、変通斟酌」として行われた[6]

中心となった満洲人には中央ユーラシア的な「姓長制」である八旗制が維持された。各旗人は皇帝の上三旗と皇族である各旗王が分封された下五旗に所属し、北京の内城は旗人(北京八旗)の街とされ、各旗ごとに区画が割り当てられ、さらに満洲→蒙古→漢軍の順で宮城の外側に居住区が設けられた。また要地の警備のために駐防八旗が駐屯した。1645年に西安・南京からはじめて他の主要都市を部分的に占拠していった。合計18カ所の「満城」が各省に設立され、1700年までにそのうち12カ所で、最終的には全ての「満城」において、北京のように旗人のための隔離居住の原則が認められた。


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