清華家
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村上天皇の第8皇子具平親王の男、右大臣源師房1008年 - 1077年)を祖とする村上源氏嫡流。師房の姉・隆姫女王関白藤原頼通の正妻であることから頼通の異姓養子となり、頼通の異母妹尊子結婚する。さらに師房と尊子の子・源顕房は娘の賢子藤原師実の養女とした上で白河天皇に入内させ(のち中宮)、もう一人の娘・師子は藤原忠実の妻となるなど、その子孫も摂関家と深い姻戚関係を築いた。師房の5世孫である内大臣通親丹後局と組んで時の関白九条兼実を追い落とし、「源博陸(みなもと の はくりく)」とあだ名されるほどの権勢家であった。久我家嫡流は長く源氏長者淳和奨学両院別当を兼任したが、室町時代に入ると足利義満が源氏長者となり、足利将軍家が源氏長者となる慣例が成立する。ただし足利将軍家そのものが後継者争いなどによって不安定な状況が続いたため、実際には村上源氏公家の久我家と清和源氏武家の足利家が交互に源氏長者に就任する様相を呈し、戦国時代に入ると再び久我家が源氏長者を独占して久我通堅まで続いた。「久我」の名称は、京都西南、山城国乙訓郡久我(現在の京都市伏見区久我)の地に別業「久我水閣」があったことが由来。分家の公家諸家として、大臣家の中院家、および羽林家の六条家岩倉家千種家東久世家久世家梅溪家愛宕家植松家の9家がある。家業:笛、江戸時代の家禄:700石、家紋:五つ竜胆車。近代の爵位:侯爵。
花山院家
藤原北家師実流(花山院流)。摂政太政大臣師実の次子、右大臣花山院家忠1062年 - 1136年)より始まる。家忠が花山上皇の御在所だった東一条院(花山院)を伝領したため、この家名がある。3代忠雅は朝政に明るかった上に、平清盛と親戚関係にあったことから、太政大臣という異例の昇進を遂げた。諸流に羽林家の中山家野宮家今城家がある。家業:と筆道、江戸時代の家禄:約750石、家紋:菖蒲菱[6]。近代の爵位:侯爵。
大炊御門家
藤原北家師実流(花山院流)。花山院家と同じく摂政師実の子大炊御門経実1068年 - 1131年)が初代。大炊御門北、万里小路東に邸宅があった。経実は権大納言どまりであったが、その子経宗二条天皇の外舅(がいきゅう)として勢威をふるい、左大臣に昇って清華家の家格を確保した(経宗は閑院流公実の女公子を母とする)。家業:筆道・和歌和琴・笛・装束、江戸時代の家禄:約400石、家紋:菱に片喰草。近代の爵位:侯爵。
菊亭家(今出川家)
藤原北家閑院流西園寺庶流。鎌倉期の太政大臣西園寺実兼の子、左大臣兼季が分家し、今出川殿を居所としたため、今出川および号として菊亭を名乗る。明治維新後は苗字の統一を図り、菊亭を名字とした。家業:琵琶。:江戸時代の家禄:約1655石、家紋:三つ楓。近代の爵位:侯爵。
新家

江戸時代に七清華から2つの新家を加えたものである。しかしこの両家より朝廷の最高職である太政大臣に昇った例が一例もなく、既存の七清華よりも格下とされた。近代の爵位は共に侯爵であった。
広幡家
正親町源氏嫡流正親町天皇の皇孫八条宮智仁親王の第3王子忠幸王1623年 - 1669年)が臣籍降下して創立。忠幸は最初、尾張藩に赴き武家となったが、のち帰洛して大納言に進んだ。禄高:約500石、家紋:三つ葉菊
醍醐家
藤原北家摂関流。江戸時代に五摂家の一条家から分かれた家。摂政一条昭良の次男、権大納言醍醐冬基1648年 - 1697年)が初代。禄高:約312石、家紋:下り藤
絶家となった家
洞院家
藤原北家閑院流西園寺庶流。第 9代の洞院実熙の時には既に経済的に困窮。第10代公数は自ら没落より絶家させる選択する。
土御門家
村上源氏久我庶流。室町時代中期に有通が早世し絶家した。
堀川家
村上源氏。室町時代に絶家した。
松殿家
元は摂家として創設された家のひとつ。藤原氏北家嫡流の藤原忠通次男・松殿基房が祖で、戦国時代に絶家、その後明和2年(1765年)に九条尚実の次男忠孝が九条家の分家として、清華家待遇となる松殿家を創設したが、明和5年(1768年)に嗣子無く没し、再び絶家した。


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