清浄華院
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蓮如の親族なども清浄華院の門末寺院で僧侶となっていたことが知られており、法然門下教団の有力寺院として活動していたことがわかる。

しかし、応仁の乱が勃発すると緒戦にて室町第攻防のため戦火に包まれ度重なる戦闘により荒廃し、以後長享元年(1487年)まで伽藍を再建出来なかった。しかしこの頃はいまだ他山の香衣参内や将軍拝賀には当院の仲介と同道が必要とされていたし、また16世紀に遡る洛中洛外図(歴博甲本・上杉本・東博模本)にも当院の伽藍が描かれており、一定の権威と寺勢を保っていたことがうかがえる。

しかし戦国時代の混乱の中で朝廷や幕府の権威が失墜し、織豊政権、徳川幕府と政権が移り変わっていくにつれて、かつての繁栄は失われていくことになる。天正年間(1573年 - 1592年)に豊臣秀吉の京都都市計画により現在地へ移転。この頃清浄華院は末寺統制に苦慮し、特に清浄華院にて活躍後に金戒光明寺(新黒谷)へ転住した道残の離反の影響は大きく、この時期に寺勢は著しく衰えたとされる。そんな清浄華院の衰微とは対照的に、鎮西派内では「寓宗」から抜け出さんがため伝法形式を革新した関東系の白旗派や名越派が京都へ進出し始め、また京都でも百万遍知恩寺知恩院が本山としての寺勢を整えていくこととなった。
江戸時代

江戸時代に入って以後も大本山としての権威は保たれることになったものの、幕府の朝廷統制が厳しくなる中で皇室との公的な関係は断たれていくこととなり、戦国時代の三休以来許されてきた紫衣勅許も江戸幕府の帰依を得て総本山となった知恩院の仲介が必要となり、勅命により晋山してきた住持職も台命勅許(幕府が命じ朝廷が許す)という形を取るようになっていった。宗内でも総録所・増上寺の統括の下で鎮西派教団の組織化が図られた結果、「引込紫衣地」と呼ばれる檀林などの修学(出世)階梯から外れた権威的な寺院として位置付けられることになった。

しかしながら皇子皇女の墓が数多く営まれるなど皇室との関係は続き、皇室帰依の寺院として権威を保ち続けた。これは天皇の皇子が早逝すると母方の実家の菩提寺に葬られる習慣があったためで、当院の檀家には公家が多く、檀家出身の娘達が産んだ皇子たちの墓がここに営まれたことによる。天皇の母となった檀家の敬法門院開明門院の墓も当院の境内に営まれている。敬法門院の子・京極宮文仁親王常磐井宮を相続して京極宮を名乗り、以後清浄華院は京極宮家(桂宮)とは親しい関係を持った。

当院と師檀関係を持った公家には、万里小路家山科家東園家姉小路家甘露寺家松木(中御門)家嵯峨(正親町三条)家堤家山本家、下冷泉家六角家坊城家錦織家玉松家等がある。地下家宮家諸大夫家司地下役人の檀家も多かった。

伽藍は寛文年間(1661年 - 1673年)の火災や、宝永の大火天明の大火などで焼失・類焼しているが、その都度御所の用材を下げ渡される形を取って再建されている。そのため御所の格式と同様の建築物を誇った。

宝永5年(1708年)に境内の東にあった御土居薮が江戸幕府から下げ与えられ、後に切り開かれて墓地とされた。

また御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となり、享保年間(1716年 - 1736年)には徳川吉宗に献上されるためベトナムから渡来したゾウ従四位広南白象)の宿所にもなっている。将軍上洛警護や治安維持のために諸藩の藩士が多数上洛した幕末には、御所警備を担当した肥後国熊本藩阿波国徳島藩薩摩藩会津藩などの藩士の宿所となった。特に会津藩は藩主松平容保が半年ほど逗留した。

明治時代に入ると明治初年まで戊辰戦争の薩摩藩の陣所の一つになった他、廃仏毀釈や浄土宗内の混乱、そして失火で伽藍を焼失するなど災難が続いたが、1911年(明治44年)の法然上人七百年大遠忌には伽藍を再興、現在に至っている。

82代法主の真野龍海が2018年平成30年)末に2期8年の任期満了を迎えた際、次の法主を巡って清浄華院と浄土宗が対立。結局、法主は空位の状態になり、これを不服とした清浄華院が一時宗派離脱の動き見せたが周囲の説得を受けて撤回、しかし宗派側が寺側関係者を宗内の懲戒機関の審判にかけ、懲戒審議中のため法主選任の会議「浄土宗門主・法主推戴委員会」を開かないとするなど混迷を深めた。続投の意志を表明していた真野は2019年(令和元年)9月9日に97歳で遷化(死去)[6]。2年以上の法主空位期間を経て、2021年4月に双方で覚書が取り交わされ、同年5月26日の浄土宗門主法主推戴委員会が開催され飯田実雄(長野県駒ケ根市安楽寺住職)が全会一致で選任された。
寺紋

皇室帰依の由緒により、皇室の紋章・菊花紋を許されてきたが、明治以降は皇室の権威に遠慮して菊花に葉をかけた「葉菊紋」を寺紋としている。

現在も皇室由緒寺院として天皇の京都御所還幸啓の際には当院法主も御所へ御出迎えに出るのが慣例となっている。
境内山科言継墓所、京都市上京区清浄華院清浄華院:立入宗継墓石(本来の墓石は立入家無縁墓地内)清浄華院:立入宗継旌忠碑

御影堂(みえいどう) - 大殿(だいでん)とも呼ばれる。本堂。本尊は法然上人の御影(肖像)。寺伝では法然が後白河法皇より禁裏内道場を賜ったのは42歳の時であったとされ、その頃の姿であるとされる。脇壇にはゆかりの皇族の位牌を安置する尊牌壇があり、外縁西側には勅使門から続く皇族用の玄関が設けられているのが特徴。現在の建物は1911年明治44年)の法然上人七百年大遠忌に落成したもの。これまでは西向きに建てられていたが、この際に南向きに変更された。


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