後漢が建てられると、清河郡の称にもどされた。82年(建初7年)、劉慶が清河王に立てられると、清河郡は清河国と改められた[5]。148年(建和2年)、清河国は甘陵国と改称された[6]。甘陵国は甘陵・貝丘・東武城・?・霊・繹幕・広川の7県を管轄した[7]。206年(建安11年)、甘陵国は甘陵郡と改められた。
223年(黄初4年)、三国の魏により甘陵郡は清河郡と改称された[8]。
277年(咸寧3年)、司馬遐が清河王に立てられると、西晋により清河郡は清河国と改められた。清河国は清河・東武城・繹幕・貝丘・霊・?の6県を管轄した[9]。
北魏のとき、清河郡は清河・貝丘・侯城・武城の4県を管轄した[10]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、清河郡は廃止されて、貝州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、貝州が清河郡と改称された。清河郡は清河・清陽・宗城・清淵・経城・高唐・博平・?平・?・武城・?南・歴亭・臨清・清平の14県を管轄した[11]。
621年(武徳4年)、唐が竇建徳を平定すると、清河郡は貝州と改められ、清河・清陽・武城・宗城・夏津・?南・歴亭・経城・臨清の9県を管轄した。742年(天宝元年)、貝州は清河郡と改称された。758年(乾元元年)、清河郡は貝州と改称され、清河郡の呼称は姿を消した[12]。
脚注^ 『史記』漢興以来諸侯王年表
^ 『漢書』宣帝紀
^ 『漢書』宣元六王伝
^ 『漢書』地理志上
^ 『後漢書』粛宗紀
^ 『後漢書』孝桓帝紀
^ 『後漢書』郡国志二
^ 『三国志』魏書武文世王公伝
^ 『晋書』地理志上
^ 『魏書』地形志二上
^ 『隋書』地理志中
^ 『旧唐書』地理志二
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