清正公信仰
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清正公信仰は日本全国で見られ、特に本圀寺本妙寺が属する六条門流系の法華宗寺院に多く見られるが、それ以外の門流に属する法華宗寺院でも法華宗および法華経の守護者として清正公信仰が盛んに行われ、特に清正が朝鮮半島から連れてきたとされる日延が建立した覚林寺や清正や娘の瑤林院ゆかりの池上本門寺が近くにある江戸や清正の生国で清正が幼時から親しみ、後に自分の生家の後に再興したとされる妙行寺がある尾張国ではとりわけ盛んであった[1]
明治以降

明治に入ると神仏分離令の影響によって、清正公信仰は仏教系と神道系に分離していくことになり、熊本には清正を祭神とする加藤神社が創建された。その直後に西南戦争が勃発して熊本は戦場となり、加藤神社・本妙寺は大きな被害を受けたが、熊本城は西郷隆盛率いる薩摩軍を食い止めて最後まで落城しなかった。建軍間もない政府軍が最終的に勝利を収めたことはこの戦争を戦った将兵に強い印象を残し、同地の名将である加藤清正の加護であると信じられた。このため、加藤神社や本妙寺の再建には乃木希典をはじめ西南戦争参戦者を中心とする軍人たちの篤い支援を受け、彼らの影響によって各地に清正を祀る神社が建てられた。北海道に清正公信仰が入ったのもこの時期であるが、その先駆者は熊本県出身者ではなく法華経を信仰していた宮城県出身の屯田兵であったとされる。乃木に代表される清正を崇敬する軍人らの活動によって清正の「忠勇」のイメージが広められ、折しも日清戦争日露戦争の戦勝祈願が行われたことも影響して、武運長久の軍神としての清正像が再構築されていくことになる。こうした状況を背景として清正の300回忌が行われた明治42年(1909年)3月11日には政府は清正に従三位を追贈している。清正の軍神化の進展は一方で「浄化」の名の下において本来の清正公信仰の担い手であったハンセン氏病患者への迫害が並行して行われ、太平洋戦争前夜の昭和15年(1940年)に発生した本妙寺事件においてその最高潮に達した[1]

太平洋戦争敗戦後、軍神とされた加藤清正は軍国主義の象徴とみなされ、清正公信仰は沈滞を迎えることになる[5][1]。また、清正公信仰や軍記物などに基づく伝説や虚像を含んだ英雄像が人々に定着して学術的な観点に立った清正研究が大きく遅れているという問題点も指摘されている[2]。しかし、一方で軍神としての性格から解き放たれたことで、今後も新たな形での清正公信仰が生み出され、加藤清正の実像の研究も進展していくとみられている。
脚注^ a b c d e f g 田中青樹「民衆の信仰としての清正公信仰」
^ a b 山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4
^ 「清正公さん信仰」(『日本歴史』188号、1964年)
^ 「肥後本妙寺と清正公信仰の成立」(笠原一男博士還暦記念会 編『日本宗教史論集(下)』吉川弘文館、1976年)
^ a b c 福西大輔「清正公信仰の成立と展開」
^ 法華経にはハンセン氏病(白癩)は法華経を邪険にした報いであると記されており、江戸時代には人々に広く知られていた。

参考文献

田中青樹「民衆の信仰としての清正公信仰」(初出:『名古屋市博物館研究紀要』23巻(2000年)/所収:山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)
ISBN 978-4-86403-139-4

福西大輔「清正公信仰の成立と展開」(初出:熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』(2012年)/所収:山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4

関連項目

神格化

外部リンク

清正公信仰の研究 : 近世・近代の「人を神に祀る習俗」福西大輔、熊本大学、2010-03-25


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