清正の死から半世紀ほど過ぎた寛文年間に成立した『続撰清正記』には、清正は六十六部回国聖である「清正房」の生まれ変わりで、加藤清正の没後に廟の工事をしていると清正房の遺骸の入った石棺が見つかったとする伝承を紹介している。同書の著者はこの伝承は史実ではないと否定しているものの、清正の没後50年にして清正公信仰が既に成立しており、こうした伝承が伝えられるほどになっていたことを示していると考えられている[1][5]。 18世紀末期に入ると、清正公信仰が新たな展開を見せる。熊本藩では天明6年(1786年)の白川の氾濫、寛政4年(1792年)の「島原大変肥後迷惑」と称された雲仙普賢岳の噴火などの災害に見舞われた。また、民衆の生活悪化から一揆や打ちこわしが相次ぎ、それは清正の霊の仕業と言う噂も出た(『翁草』)。こうした状況の下で文政元年(1818年)に加藤清正の200年忌が行われた。こうした中で本妙寺、そして同寺ゆかりの清正公信仰が藩内に広まっていくことになる。また、藩主の細川家も反権力の象徴として浮上した清正を崇敬することで人心の収攬を図った。 一方、同藩の庄屋で干拓事業にあたっていた鹿子木量平
江戸時代後期
また、幕末になるとコレラ(ころり=虎狼狸)の流行が問題視されたが、虎狼狸には「虎」が入っているからという理由で、「朝鮮出兵での虎退治の伝説がある清正なら虎狼狸も退治してくれるのでは?」という期待からコレラの鎮静を祈願する人もいたとされる。これらの信仰は性格の違いはあれど、いずれも現世での利益を祈願する要素が強かった。清正公信仰は日本全国で見られ、特に本圀寺や本妙寺が属する六条門流系の法華宗寺院に多く見られるが、それ以外の門流に属する法華宗寺院でも法華宗および法華経の守護者として清正公信仰が盛んに行われ、特に清正が朝鮮半島から連れてきたとされる日延が建立した覚林寺や清正や娘の瑤林院ゆかりの池上本門寺が近くにある江戸や清正の生国で清正が幼時から親しみ、後に自分の生家の後に再興したとされる妙行寺がある尾張国ではとりわけ盛んであった[1]。 明治に入ると神仏分離令の影響によって、清正公信仰は仏教系と神道系に分離していくことになり、熊本には清正を祭神とする加藤神社が創建された。その直後に西南戦争が勃発して熊本は戦場となり、加藤神社・本妙寺は大きな被害を受けたが、熊本城は西郷隆盛率いる薩摩軍を食い止めて最後まで落城しなかった。建軍間もない政府軍が最終的に勝利を収めたことはこの戦争を戦った将兵に強い印象を残し、同地の名将である加藤清正の加護であると信じられた。このため、加藤神社や本妙寺の再建には乃木希典をはじめ西南戦争参戦者を中心とする軍人たちの篤い支援を受け、彼らの影響によって各地に清正を祀る神社が建てられた。北海道に清正公信仰が入ったのもこの時期であるが、その先駆者は熊本県出身者ではなく法華経を信仰していた宮城県出身の屯田兵であったとされる。乃木に代表される清正を崇敬する軍人らの活動によって清正の「忠勇」のイメージが広められ、折しも日清戦争・日露戦争の戦勝祈願が行われたことも影響して、武運長久の軍神としての清正像が再構築されていくことになる。こうした状況を背景として清正の300回忌が行われた明治42年(1909年)3月11日には政府は清正に従三位を追贈している。清正の軍神化の進展は一方で「浄化」の名の下において本来の清正公信仰の担い手であったハンセン氏病患者への迫害が並行して行われ、太平洋戦争前夜の昭和15年(1940年)に発生した本妙寺事件においてその最高潮に達した[1]。 太平洋戦争敗戦後、軍神とされた加藤清正は軍国主義の象徴とみなされ、清正公信仰は沈滞を迎えることになる[5][1]。また、清正公信仰や軍記物などに基づく伝説や虚像を含んだ英雄像が人々に定着して学術的な観点に立った清正研究が大きく遅れているという問題点も指摘されている[2]。しかし、一方で軍神としての性格から解き放たれたことで、今後も新たな形での清正公信仰が生み出され、加藤清正の実像の研究も進展していくとみられている。
明治以降
脚注^ a b c d e f g 田中青樹「民衆の信仰としての清正公信仰」
^ a b 山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)