清教徒革命
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両者の関係は次第に離れてゆき、1628年6月の「権利の請願」提出を経て1629年に、議会は解散を命じられた[5]
親政(Personal Rule)

チャールズ1世の治世当初はジェームズ1世からの寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズが政治を取り仕切っていたが、失敗の連続で議会の不満を買い、1628年にバッキンガム公が暗殺された後はチャールズ1世が親政を始めた。この親政時代(1629年 - 1640年)は"Eleven Years' Tyranny"(専制の11年間、または個人支配(英語版))とよばれる。

親政では倹約と教会の監督制強化、新規課税による財政再建が主な課題となった。財政再建においてはトン税・ポンド税・船舶税の徴収強化を図ったが、議会の承認を経ていない税ゆえに反発を招いた[注 2]。チャールズ1世はジョン・ハムデンら反発した者を星室庁で裁き、投獄して耳そぎの刑に処した。教会の監督制強化の面では側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの進言でスコットランドへの祈祷書施行が行われたが、長老制長老派教会)のスコットランド国民盟約(盟約派)の反発を招き主教戦争を起こした。戦争の結果、賠償金を支払うこととなり、資金が払底(ふってい)したチャールズ1世は再度議会を開かざるを得なかった[6]
短期議会と長期議会

かくして議会が召集されたのは1640年4月だったが、行き違いはむしろ深刻になっており、議会は3週間たらずで解散された。これが「短期議会」といわれるものである。しかし主教戦争を遂行するためにも予算が必要であり、予算を得るためには議会の開催が必要だった。こうしてやむなく再度議会を召集し、「長期議会」が同年11月に開会された。ジョン・ピムが指導する議会は国王とその側近、および国教会ヒエラルキー(特にアルミニウス主義)に対する攻撃を強調、星室庁・高等宗務官裁判所廃止、トン税・ポンド税・船舶税を議会の承認を経ていないことを根拠に違法と宣言、親政で問題視された機関や税を廃止した。一方で治安が急速に悪化し、アイルランドでカトリック同盟による内戦が起こった。現地プロテスタント虐殺の報に沸騰したロンドンでは国教会に対する不満が噴出していた。1641年5月には国王派で議会内の反対派鎮圧を画策していたストラフォード伯トマス・ウェントワース(元は議会派であったが、親政期に国王側に離反して閣僚となっていた)が議会によって人身保護の権利を剥奪(私権剥奪)されて処刑されている[注 3][7]

1641年11月に、外交などの国王大権を制限して議会主権を主張する「議会の大諫奏」(大抗議文)が僅差で可決されたことが、事態を決定的なものとした。この抗議文は急進性を有しており、すべての議員に支持されてはおらず、可決したものの票差は159対148とわずか11であった。この抗議文への姿勢の違いから議会は国王派(王党派、騎士党)と議会派(円頂党)に分裂した。続いて12月に議会が民兵条例を審議すると、国王側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けてチャールズ1世は1642年1月に議会派の中心人物ピム、ハムデン、アーサー・ヘジルリッジデンジル・ホリスウィリアム・ストロードら5人の逮捕を命じ、これを見たロンドン市民は議会派についた。5人の逮捕に失敗し身の危険を感じて王がロンドンを離れると、国王派と議会派は互いに軍備に取り掛かり3月に民兵条例が可決、議会から国王への和平提案(19か条提案)が拒否されると両派は完全に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が始まった。この時期、民衆はピューリタンらの発行したパンフレットを通じて一連の政治問題に強い関心を示し、請願や暴動などが起きて民衆の政治活動が活発に起きはじめていた。この中から後述する平等派がつくられていき、長老派との抗争において独立派を支持した[8]
三十年戦争

ヨーロッパ大陸の三十年戦争とそれによる疲弊は、フランスなど大陸諸国が介入する余力を残さなかった。これによって清教徒革命は大陸に波及することがなく、後の名誉革命フランス革命と違って、海外の干渉をほとんど受けずに進展した[9]

ただ、チャールズ1世は姻戚関係にあるフランスとオランダから協力を取り付けるため、内戦開始前の1641年から接触していた。フランスは王妃ヘンリエッタ・マリアの出身地でオランダは王女メアリー・ヘンリエッタの嫁ぎ先であり、両国はイングランドへ派遣した外交官を通して国王を見守っていた。しかし王妃から支援を頼まれても両国は内戦介入を避け、他の国々も同様で、国王は海外から支援を得られなかった。一方、フランスやオランダが内戦の調停に乗り出したこともあったが、国王に反対され失敗に終わった[10]
内戦・革命における党派

ここでは、清教徒革命においてみられた主な党派について説明する。イングランドにおいては、各党派は階級や地方による分類が難しく、どの党派に属するかは血縁などの個人的関係が大きく影響していたといわれる。
国王派

議会にはいたものの、大抗議文の趣旨に賛同せず国王側についた議員とその領袖を指す。国王派といっても議会との妥協を図る者から徹底抗戦を主張する者まで、見解には振幅があった。産業化が進んでおらず、ピューリタニズムの浸透が浅いイングランド北部・西部及びウェールズコーンウォールにおいて有力であり、1645年に議会派がニューモデル軍を結成するまでは有利に戦局を展開させていた。派閥は、ほぼ国教会信徒によって構成された。
議会派詳細は「ピューリタン」を参照

大抗議文の作成を主導したか、賛同して国王軍と戦った議員が議会派であるが、主張の濃淡は多様であった。主にイングランド東南部で支持された。多くは国教会改革を唱えたが、求める改革の方向は宗派によってまちまちであった。以下のほか、バプテスト(浸礼派)やクエーカーが入り乱れ、百家争鳴の様相を呈した。
長老派
中央権力を弱めた長老制教会をめざした一派であり、国王派と和解に積極的姿勢を示した穏健派である。同じ長老制教会を擁するスコットランドと友好関係を保った。議会の多数派であったが、チャールズ1世と妥協を図って独立派と対立し、プライドのパージによって議会から追われた。中産階級以上が多かったといわれ、追放後はランプ議会に対してパンフレットによる言論攻勢をかけた。
独立派
分離派の1つ。カルヴァン主義独立派に属する。他の分離派と長老派の中庸を目指した党派で、革命を積極的に推進した議会内勢力である。宗教面の主張よりも政治的利害の一致によって結びついた。オリバー・クロムウェルなど将校に多く、内戦においては主戦派であった。平等派やと共同歩調をとって長老派を追い落とし、ランプ議会で議会を掌握した。独立派の多くが国王の処刑に署名し、王政復古後にレジサイド王殺し)として逮捕・処刑された。
平等派
分離派の1つ。元独立派左翼で兵士やロンドンの一般市民からなり、平等な政治体制の実現を求めて社会契約や普通選挙導入を主張した。レヴェラーズ(水平派とも)と呼ばれ、教義より政治的主張を重視した。ジョン・リルバーンら論客のパンフレットにより盛り上がりを見せ、革命の徹底を主張した。当初は独立派と近かったものの、革命後の共和政(イングランド共和国)以降は対立し、1650年から弾圧に遭って衰退した。
第五王国派
分離派の1つ。アッシリアペルシアギリシアローマに続く第5のキリスト教による千年王国を実現せんとした急進派である(Millennialism)。トマス・ハリソン等、一般市民や兵士および一部将校からなる。聖者による統治を目指し、共和政やクロムウェルを支持したが、護国卿制になってからは反体制側にまわって暴動を起こすなどテロリスト化していった。王政復古後は弾圧に遭い勢力は衰え、その一部は北米植民地(後のアメリカ合衆国カナダ)に移住した。


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