清少納言
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この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。

天元4年(981年)頃、藤原斉信家司橘則光965年 - 1028年以後)と結婚した。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』では則光は武勇に優れ世の評判も高い人物として語られており、『金葉和歌集』にも詠歌が入選しているが、『枕草子』八〇段では少納言の謎かけにも気づかず、和歌も極端に嫌う人物であると描写されている[9]。一子則長982年 - 1034年)を生むものちに夫婦関係は破綻している。しかし関係が完全に解消されたわけではなく、清少納言が定子に出仕した頃も則光とは妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったとされる。『枕草子』八〇段によれば「何ともなくて、 すこし仲あしうなって(なんとなく仲が悪くなり)」、則光が遠江介となった長徳4年(998年)頃に別離したとされる[9]。のちに、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた[10]

一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で気が強い彼女は、主君定子の恩寵を被り、一条院内裏の北の二の対に、局として小廂を賜っている。『枕草子』「二月つごもりごろに」106段では、源俊賢が清少納言の機知を賞賛して「なほ内侍(掌侍)に奏してなさむ 」と語ったとある。このことから角田文衛は、清少納言の職階を命婦と推定した[11]

漢学にも通じ、『枕草子』 第197段、第299段の「香炉峰の雪」のエピソードは白居易の『白氏文集』の詩をもとにしたエピソードである。また第8段では『蒙求』などに引かれる前漢丞相于定国が門を広く作ったことを踏まえた会話を行っている。特に恋人ともされる藤原実方(? - 998年)との贈答が知られる。

長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞した。古伝には淑景舎御匣殿上東門院などへの出仕説もあるが明確な根拠はなく疑わしい[8]。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『清少納言集』の異本には内裏の使いとして蔵人源忠隆が摂津に来たという記録がある。角田文衛はこの使者は、清少納言に定子の遺児の?子内親王脩子内親王の養育を要請したものと推定している。清少納言は再出仕し、紫式部らと接触があったとする説であり、清少納言と紫式部は面識がないとする従来説とは一線を画すものであるが、面識があった、あるいはなかったとしてもこれを裏付ける史料はなく、『紫式部日記』の清少納言評が唯一の文献である[12]

寛仁元年3月8日1017年4月7日)には兄・清原致信源頼親によって殺害されるという事件が発生している[13]。『古事談』においてはその場に清少納言も同座していたとされるが、殺害の実行犯は頼親ではなくその兄の源頼光の指示を受けた頼光四天王であったとされていて史実との相違がみられる[14]

老後の動静は不明だが、『赤染衛門集』に、「元輔が昔住みける家のかたはらに清少納言住みしころ」、『大納言公任集』に「清少納言が月の輪にかへり住むころ」の詞書を持つ詠歌がある。「元輔集」「能宣集」などの詞書より父の元輔が、夫の棟世が「月の輪」と呼ばれた地にそれぞれ山荘を所有していたことが推定されており、老後はこれらの地に隠棲していたことが想定される[15]。「月の輪」の正確な比定地は不明であり、後述の泉涌寺付近とする岸上説に加え、洛東の「月林寺(現・曼殊院)」後藤祥子[16]、洛西「月輪寺萩谷朴[17]がある。
和歌

中古三十六歌仙女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首[注釈 1]の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集[18]。清少納言が残したとされる歌は田中重太郎によると約62首である[19]

父の元輔は歌壇の巨匠であったが、『無名草子』ではその子にふさわしい歌を持っているとは評価されていなかった[19]。本人も『枕草子』「うらやましげなるもの」で「手よく書き、歌よく詠みて、もののをりごとにもまつ取り出でらるる」人を羨ましいとしており、自らの歌才を高く評価してはいなかった[20]。「五月の御精進のほど」章段では、「有名歌人の子であれば人より優れ、あの時にはこんな歌を詠んだ、さすがは誰それの子であると語られるようであれば甲斐もあるが、歌がうまいと思い込み、少しの良い点もない歌を我こそはと最初に詠み出すようなことがあれば亡き父の名誉にも障る」と詠歌御免を願い、定子もそれを許したエピソードが綴られている。

藤原行成とかわされたとされる歌である「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」の歌は、藤原定家の選じた小倉百人一首に採られている(62番。61番の伊勢大輔に続いて百人一首では当代歌人の最後に位置し、68番に来る三条院とともに疑問ののこる序列となった)。

京都市東山区泉涌寺にこの歌の歌碑がある。昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞の発案によって歌碑が建立された[21]。建立当時は、岸上慎二説によって、(定子皇后の鳥辺野陵にほど近く)嘗てここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したとされていた。しかし、この地が月の輪と呼ばれるようになったのは、月輪殿と称された九条兼実がこの地に隠棲して以降である。
清女伝説清少納言(菊池容斎画、明治時代)

鎌倉時代に書かれた評論書『無名草子』には係累もなく乳母子について田舎に下り、みすぼらしい姿で過去を懐かしんでいたという話、説話集『古事談』には、すっかり壊れてしまった清少納言邸の前を牛車で通りかかった公達が「清少納言もずいぶん落ちぶれたものだ」と漏らすと、鬼のような尼姿となった清少納言が「駿馬の骨を買う者はいないのか」と「戦国策」を踏まえて切り返したという記事(第2臣節56「零落したる清少納言秀句の事」)や、兄の致信が討たれた際、僧形であったため巻き添えにされそうになり陰部を示し女性であることを証明したという話(第2臣節57「清少納言開を出だす事」)など、落魄説話が掲載されるようになった。

角田文衛は定子の遺児脩子内親王、定子の弟である隆家、所生の子女である則長や小馬、出仕時に交流を持っていた藤原斉信や藤原行成、藤原公任などが健在であった以上、老残の状態を放置され零落したとは到底考えられないと断じている[8]

また全国各地に清少納言が訪れたという伝説がある。鎌倉時代中期頃に成立したと見られる『松島日記』と題する紀行文が清少納言の著書であると信じられた時代もあったが、江戸時代には本居宣長が『玉勝間』において偽書と断定している。
伝墓所

天塚徳島県鳴門市里浦町里浦坂田) - 比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めを受けんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し[22]、尼塚という供養塔を建てたという[23]

清塚(香川県琴平金刀比羅神社大門) - 清塚という清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」がある。

京都市中京区新京極桜ノ町 - 風流と情愛にのみ生きて仏道を顧みることがなかったが、ある時訪れた誓願寺において発心を起こし出家、庵を結び内裏よりの出仕の要請も断り仏事に専念して往生を遂げたという。


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