清和政策研究会
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佐藤栄作は、自由党時代から実兄の岸信介に仕えていた福田赳夫大蔵大臣に抜擢し、党幹事長には自派閥の田中角栄を起用した。

自民党総裁選8日前の1966年11月23日、佐藤は記者会見の場で、「右腕」の田中には何も知らせず、党幹事長を別の者に交替させると発表した[15]。12月1日に行われた党総裁選で佐藤は当選。12月3日、第1次佐藤第3次改造内閣が発足。党内人事も同時に行われ、佐藤は福田を党幹事長に起用した。池田本流とつながりの深い田中を切り、福田を頂点とする新佐藤派≠ノ派閥を再編することが目論見であったとされる[15]。以後、福田は佐藤の後継者と見られるようになった[14]

福田は首相となるには数ではなく資質と考え、派閥の拡大をしなかった。そのため1970年11月、三期目中の佐藤は、最終的に首相になるには自民党総裁選での数の論理であるのに後継者と考えている福田に自派閥が無いことを心配した。福田は派閥「紀尾井会」として、組織・遊説、政策、情報・宣伝の3部会を設置し、漸く正式な初の福田派を旗揚げした[14]

1972年まで7年に及んだ佐藤内閣の後継をめぐるいわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤における意中の後継者は福田であったが[14]、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた(1972年自由民主党総裁選挙)。総裁選で敗れた直後に周山クラブ(保利グループ)と春秋会(園田派)を糾合し「八日会」へと名称変更した。この挫折を機に、領袖福田のもと、七日会(後の木曜クラブ、田中派)と「角福戦争」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって伸び悩んだ。

1976年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙で自民党は半数を割り込み、責任を問われた三木武夫首相は12月17日に退陣を表明した[16]。大平正芳とのあいだで「三木の後はまず福田が総理、2年後に大平に譲る」とする密約(いわゆる大福密約[17]を交わしていた福田は12月23日に行われた党総裁選で無投票で当選し、翌24日に内閣総理大臣に就任した。福田赳夫内閣の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散した[1]

1978年11月26日に行われた自民党総裁選挙大平・田中連合の前に敗北した。12月7日、福田は内閣総理大臣を辞任。福田の退陣に伴い再結成の機運が高まる。

1979年1月24日、福田を中心として「清和会」が結成された[1]。出典は、東晋元帝諸葛恢の統治を「政清人和(清廉な政治でおのずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『晋書』諸葛恢伝)。この清和会は略称ではなく正式名称である。1984年に自由革新同友会石原派・旧中川派)を吸収する(古屋圭司の養父・古屋亨は先行離脱し福田派に移籍していた)。
安倍晋太郎派安倍晋太郎

1986年7月6日に行われた衆参同日選挙で自民党は圧勝。同年7月14日、福田は後継会長に安倍晋太郎を指名し、安倍は同日付で会長に就任[1]

派閥内の三塚博加藤六月塩川正十郎森喜朗の4人の実力者は安倍派四天王と呼ばれ、経世会の“竹下派七奉行”と比較された。安倍は中曽根康弘の後継を目指すが、1987年10月20日の中曽根裁定により、首相の座は竹下登が射止めた[18]竹下内閣では幹事長として主流派入りし、ポスト竹下の最右翼と見なされていたが、1988年、自身の秘書がリクルートコスモス(現「コスモスイニシア」)の非公開株を譲り受けていたことが発覚。リクルート事件のダメージを受ける[19]。さらに1989年5月、安倍は膵臓がんの手術を受け(表向きには総胆管結石治療とされた)[20]、同年7月まで長期入院を余儀なくされた[21]

1991年5月15日、病状悪化により、安倍は死去した。
三塚派三塚博

その後、安倍の後継会長を三塚博加藤六月が争う。この抗争は両者の名を取って「三六戦争」と呼ばれた。詳細は「三六戦争」を参照

1991年6月20日、森喜朗の支持を得た三塚が清和会会長に就任した[1]

同年10月27日に行われた党総裁選に三塚は立候補するが、加藤は、竹下派の推す宮澤喜一支持を表明した。そのため加藤は同年10月に三塚派を除名され、政眞会を結成、のちに自民党も離脱することとなった。加藤の離脱後、三塚を支持した森、塩川、小泉、玉澤徳一郎中川秀直などと、加藤を支持したものの清和会に残った亀井静香平沼赳夫中川昭一尾身幸次町村信孝などとの間にしこりが残ったといわれている。

三塚派に移行してからは、森系と、急速に派内での発言力を増していた亀井系との対立が激しくなる。

1994年11月24日、自民党の下野に伴い呼び掛けられた派閥解消で、清和会は解散し、派閥に代わり結成が認められたグループとして「21世紀を考える会・新政策研究会」が結成された。三塚は同会の会長にそのまま留任した。

1998年、森系主導により、三塚派の独自候補として小泉純一郎自民党総裁選出馬を決定したことに亀井系が反発。異議を唱えるが押し切られ、総裁選後に森が党幹事長に就任したことで派の分裂が決定的となる。同年9月に亀井系は三塚派を離脱した。
森派森喜朗

1998年12月11日、三塚は後継会長に森を指名した。同年12月15日、「21世紀を考える会・新政策研究会」は「清和政策研究会」に名称変更。新会長に森が就任した。

2000年4月5日、森が首相に就任。福田以来の総裁派閥となった。森は派閥を一時的に離脱したため、4月6日、小泉純一郎が会長に就任した。派閥を継承した森は同じく発言力を増しつつあった小泉と組み、混乱していた派内を掌握した。ただし、森内閣は基本的には小渕前政権を継承しており、野中広務村上正邦青木幹雄といった前内閣を支えた他派閥の実力者に依存し、野中らにより加藤の乱も抑え込んだ。なお、小泉が会長を務めていた期間も呼称は森派のままであった。

2001年4月26日、森内閣が総辞職。同日、小泉が首相に就任、森は派閥の会長に復帰した。小泉は派閥を恒久的に離脱したため、会長総裁分離が定着した。小泉は最大派閥であった橋本派を「抵抗勢力」と名指し、三木内閣以来25年ぶりに同派を執行部から排除する一方、青木幹雄が実力者だった同派の参院側の協力を得て最大派閥を牽制・分断した。その結果、2005年の衆議院選挙で党内第一派閥へと躍り出て、「清和会支配」に移行した。

2006年、小泉総裁退任に伴う自民党総裁選挙では有力候補として同じ森派の安倍晋三福田康夫の名がそれぞれ挙がった。森派はかつて安倍・福田の父親が率いた派閥であることも注目され、2人が立候補すれば森派の分裂も予想されたものの、福田が不出馬を宣言したため派閥内の候補者分裂は回避された。同年9月20日、総裁選が執行され、安倍が総裁に選出された。
町村派町村信孝

2006年10月19日、森は派閥会長を退任し、町村信孝が同派会長に就任。派閥名は「町村派」となった。10月26日の派閥総会で森は同派名誉会長に就任した。町村への派閥継承は、幹事長に就任したもう一方の実力者の中川秀直とのバランスを考慮したものだったとされる[要出典]。


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