清原和博
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清原は「この経験が、のちにプロ野球で死球を避けずに当たりに行く姿勢に繋がったのかもしれない」と語っている[7]

なお、清原に限らず、1年生もやられっぱなしというわけではなく、3年生に作る食事に何らかの異物を入れるなどで仕返しをしていたという[8]
打撃練習

ただし、PL学園での練習のレベルや先輩たちの技術は、高校1年生の清原にとって「大したものではなかった」という[7]

打撃練習では簡単に場外へ飛ばしてしまい、上級生からの嫉妬を受けて殴られることあった。そのため「打ちたくないのに打ってしまう」状態だった[7]

当時の1年生はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが[9]、それでもネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために[7][10]、先輩からの殴打が頻発するようになった。

清原は先輩からの殴打を恐れて、打撃練習の際にはなるべく飛距離が出ないようにライト方向への流し打ちを意識するようになった。それが、のちに得意とする流し方向への本塁打を習得したきっかけとなった。甲子園での最初の本塁打もライト方向であった[7]

清原にとっては身の安全のため、「生きるため」に編み出したものであり、その技法を他人へ言葉にして指導することは難しいという[7]
基礎練習

ほかに、部員全員で競ってグラウンドを5周走り、首位の1人だけが抜けて延々と繰り返すという過酷な練習もあった。清原は脱水を避けるために和式便所の水をすくって飲み、生き延びたという。4月に入学してから春の大阪府予選大会までの間に体重が10kg落ちた[7]

また、守備練習では、1年生がエラーをするたびに、上級生である2年生部員が3年生部員に臀部をバットで殴られる制裁を受けた。これも非常に精神的な負担が大きいものであった。さらに練習の後、その2年生は報復として1年生を殴ったという[7]
野手への転向

清原は早くから1年生では田口権一と共にレギュラー組に選ばれていたが、6月頃に(入学当初から希望していた)投手の練習はもうしなくていいと言われた[11]。その後、同期の桑田真澄の傑出した実力を知った。新入部員が最初に集まった際に、桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと、後にYOUTUBEの片岡篤史チャンネルでコメントしている。(2019年12月12日配信)
甲子園での活躍

全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番打者を務め[12]、エース桑田と共に甲子園大会に5季連続出場を果たす。1年生のに優勝、2年生のは共に準優勝、3年生のはベスト4、3年生のは2度目の優勝を経験している。

なお、3年生(1985年)夏の甲子園準々決勝では5回裏に[13]高知市立高知商業高等学校中山裕章から「甲子園史上最大」とされる本塁打(飛距離140 m)を打ったが[14]、清原自身は後年にこの本塁打を「(野球人生で)最も記憶に残る一発」[15]「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返っている[16]。また決勝戦も制することが出来た[17]

特に清原と桑田の2人は「KKコンビ」と呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになる、この世代を代表する人物となった。後にプロ入りした松山秀明今久留主成幸内匠政博も、共に活躍した。

個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど(第66回大会香川伸行の記録を更新[18])、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、当時の1大会での新記録となる5号[注 3]を放った際[注 4]植草貞夫は「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。

3年生春の対浜松商[22]と同年夏の東海大学山形高等学校戦(共に大量得点差のついた最終回)では監督の中村順司に懇願し、投手として登板させてもらった。浜松商戦では八回1死満塁の場面で3番手として登場。試合終了まで打者5人を完璧に封じ、中にはナックルボールも駆使し連続三振を奪ったものもあった[23]。東海大学山形高等学校戦では29?7で大勝した試合でも九回に4番手としてマウンドに上がり、打者4人に対し計17球を投げ、2者連続押し出し四球を与えたが1三振を奪った[23]。なお、初球にカーブを投じたことに対し、同試合の球審を務めていた西大立目永から「真ん中、まっすぐ放りなさい!」と指導されるエピソードが残されている[24]

豪快な本塁打など、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯だった。3年春のセンバツ準決勝では渡辺智男に3三振と完璧に抑えられ、チームも1-3で敗れ高校3年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった。清原は試合後ベンチで涙を流したが、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているのを見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたというエピソードがある[25]
ドラフト会議

清原は子供の頃から熱烈な読売ジャイアンツ(巨人)ファンだった[26]

プロ野球チームへ入団する際には、自身および父親以外の家族全員がファンである巨人、もしくは、父親がファンである阪神入りを熱望した。両軍がプロ野球ドラフト会議で自身への交渉権を逃した場合には、プロ入りせずに翌年までは日本生命硬式野球部社会人野球を行うことを表明していた[注 5]

しかし、運命の1985年ドラフト会議当日、巨人は清原ではなく、早稲田大学進学を表明していたチームメイトの桑田真澄をドラフト1位で強行指名した。

当の清原は、阪神および南海ホークス日本ハムファイターズ中日ドラゴンズ近鉄バファローズ西武ライオンズの6球団から1位指名を受けた。しかし、抽選の結果、阪神ではなく西武が交渉権を獲得した。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された。詳細は「KKドラフト事件」を参照。

後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、巨人を見返すために日本生命硬式野球部の内定を断り、プロ入りを決断した[注 6]
西武時代

高校卒業の年、清原はそのまま西武に入団、背番号は3とした。

ルーキーイヤーの1986年、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ね、開幕2戦目(4月5日)の南海ホークス戦の6回表から一塁の守備につき途中出場でプロ公式戦デビューすると、第1打席では四球、第2打席には藤本修二からプロ初安打・初打点をも兼ねる初本塁打を打つ。

試合は2対4で敗れたが、個人的な活躍から、なおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られたという。打たれた藤本は試合後のインタビューで、「本塁打よりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している。清原自身はこのことを自著で「自分たちのチーム(南海)が優勢で浮かれていたろうし、なにより自分を新人だと思って手を抜いていただけ。


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