淳和天皇
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淳和天皇

第53代天皇
在位期間
823年5月29日 - 833年3月22日
弘仁14年4月16日 - 天長10年2月28日
即位礼823年6月9日(弘仁14年4月27日
大嘗祭823年12月22日(弘仁14年11月17日
元号天長
時代平安時代
先代嵯峨天皇
次代仁明天皇

誕生786年延暦5年)
崩御840年6月11日承和7年5月8日
淳和院
大喪儀840年6月16日(承和7年5月13日
陵所大原野西嶺上陵
和風諡号日本根子天高譲弥遠尊
追号淳和天皇
諱大伴
元服798年5月7日(延暦17年4月17日
父親桓武天皇
母親藤原旅子
皇后正子内親王
高志内親王(贈皇后)
子女恒貞親王ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居平安宮
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淳和天皇(じゅんなてんのう、786年延暦5年〉- 840年6月11日承和7年5月8日〉)は、日本の第53代とされる天皇(在位:823年5月29日弘仁14年4月16日〉- 833年3月22日天長10年2月28日〉)。は大伴(おおとも)。西院帝ともいう。

桓武天皇の第七皇子。母は藤原百川の娘の旅子平城天皇嵯峨天皇の異母弟。
略歴

2歳にして生母を失ったために、これを哀れんだ桓武天皇は、有能な女官であった文室与伎の妻の平田孫王に親王の母代わりとして育成させたという。延暦17年(798年)4月、殿上にて元服する。その後、三品式部卿であったことが見える(『日本後紀』延暦23年12月26日条)。

延暦25年(806年)3月に父帝が崩御し、平城天皇が践祚すると、5月1日806年5月22日)に臣籍降下を願い出るも、新帝に却下された。直後治部卿に任じられる。大同3年(808年)中務卿となる。

大同5年9月13日(810年10月14日)、平城太上天皇の変後に、平城上皇の子である高岳親王が皇太子を廃されると、これに代わって嵯峨天皇の皇太弟として立太子した。平城天皇・嵯峨天皇が桓武天皇の皇后(藤原乙牟漏)の子であったのに対し、大伴親王(淳和天皇)は皇后所生ではなかったが、生母旅子は皇后と同じ藤原式家の出身であった。また、大伴親王は皇后所生の異母妹高志内親王を妃とし、恒世親王を儲けていた。この点において、恒世親王は高岳親王や嵯峨天皇の息子正良親王(後の仁明天皇)よりも桓武天皇嫡系に近かった。これに加え、大伴親王と嵯峨天皇の関係が良好であったことなどから、大伴親王が皇太弟となったと考えられている。一方、大伴親王本人は、自分や恒世親王が他戸親王早良親王のように皇位継承争いに巻き込まれることを危惧して、皇位継承に積極的ではなく、延暦25年に臣籍降下を上表したことも、そのような姿勢の表れと考える研究者もいる[1]

弘仁14年4月16日(823年5月29日)に、嵯峨天皇の譲位を受け即位。即位の儀礼の様子が『淳和天皇御即位記』により伝わる。また、淳和天皇即位に伴い、大伴氏が天皇の諱を避けて伴氏と改姓している。

『日本後紀』の散逸により治世の詳細は不明点も多いが、清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。また土地対策を行い、税収の増加に努めた。また、『令義解』や『日本後紀』の編纂が行われた。表面的には比較的平穏な時代であった。

天長10年2月28日(833年3月22日)、仁明天皇譲位し、太上天皇となり淳和院に移る。

淳和天皇は即位後、自身の子である恒世親王ではなく、嵯峨天皇の嫡子として正良親王(仁明天皇)を皇太子に立てた。恒世親王は淳和天皇在位中に病死したため、即位した仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女)の間に生まれた恒貞親王を皇太子に立てた。淳和上皇は有力貴族の後ろ盾のいない恒貞親王が皇太子になったことに不安を抱いていたとされ、忠実な側近藤原吉野に親王の後事を託したが、その不安は上皇崩御後に承和の変として現実のものとなった。

承和7年5月8日(840年6月11日)崩御。宝算55。死に当たって薄葬を遺詔したため京都大原野西院に散骨された。


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