深見千三郎
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(テレビ番組は、)まるで芸人の棺桶だ」と言い、興味や出世欲から安易にテレビという放送分野に踏み込まないよう釘を刺したことがあり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}テレビ向けに最適化を施したコントを演じていたコント55号をひどく嫌っていたと伝えられている[要出典]。

芸人としての生き方やファッションに独自の美意識を持っており、弟子にも厳しくそれを叩き込み、長門勇らも非常に影響を受けたと語っている。ホームグラウンドの浅草に、オシャレの見本になるような芸人がいない事を嘆いていた。以下はその一例。

「芸人は良い服を着ろ。腹は減っていても見えないが、着ている服は見える。特に足元を見られるというように、靴には気を遣え。」

「笑われるんじゃない笑わせろ。舞台から降りたら格好いいと言われるようにしろ。」

「芸人は芸を持て。楽器でもタップダンスでも良い。ただやるだけではダメだ、舞台で客に見せられるレベルの芸を持て。」


マシンガンのような早口でスピードとテンポがありながらも、独特の間合いのある舞台を演じた。また、他の芸人がやっても全くダメで、深見でしか客に受けない出し物・ネタも多くあった。

コントの名作を幾つも作り、現在も受け継がれている事柄もある。例えばコントに登場する映画監督と言えばハンチング帽ニッカポッカメガホンを持つのが定番だが、このスタイルも深見が浅草時代に作ったものである。

笑い以外で拍手される事を潔しとしなかった。ウエスタンスタイルを売り物にしていた内藤陳がガンアクションで拍手をもらうのを見て、「いい気になってるんじゃねえよ。客の拍手を止めて、『よけいな所で拍手するんじゃねえ』くらい言え。」と言った。この言葉を言われた内藤は「格好いいなぁ。」と感心したという。

芸人としての感覚を磨く事にも厳しく、付き人の勇らにも容赦なかった。楽屋で芸人と談笑している時や外を歩いている時など日常生活のなかでも、急にネタを振ったりボケを要求したりして一切気が抜けなかったという。

前述のような厳しい指導の一方で、弟子の暮らしぶりには人一倍気を遣い、たけしにも住まいをはじめ全て面倒を見た。弟子と一緒に食事する時も自分から酌をしたり、「あれ飲め、これ食え」と自分の事はそっちのけで世話を焼いた。過度に封建的な師弟関係には批判的で、自分の食事中に弟子に給仕をさせたり外で立たせたりするほかの師匠格の芸人に関して「あんなのは田舎者のやる事、楽しむ時は一緒に楽しめばいいんだ。」と語っていた。

深見の「最後の弟子」ビートたけし

お笑いBIG3」の一人である、ビートたけしの師匠としても知られる[7]

「北は長いからタケだ」と言ってたけしを息子のように非常に可愛がった。

明治大学を中退後、フランス座のエレベーターボーイをしていた青年の北野武はエレベーター内で深見に弟子入りを直訴、「お前何か芸が出来るのか?」と問う深見に返事できないでいると、深見はその場で軽快なタップを踏み始め、「こういうのでも練習するんだな」と弟子入りを許した。その余りの格好良さに、たけしは感動したという。たけしはその後、フランス座の屋根裏部屋で住みながら芸人修行を始めた。

たけしは深見からの薫陶と影響を深く受けた。たけしの芸風である毒舌・早口・アドリブなどは全て深見譲りであり、タップダンスも得意としていたことから、周囲から「まるで生き写し」と言われた事もあったという。その一例として、放送番組で、たけしの弟子の集団であるたけし軍団に絡む際、深見譲りの毒舌と、鋭いツッコミを入れるなどしている[注釈 4]。後にたけし自身も「芸人としての心意気・感覚すべてピッタリだった。自分はその心意気を継いでいる。」と語っており、別番組のインタビューでは「芸人としての生きざまは師匠の深見千三郎から教えられた。深見から言われた「笑われるのではなく笑わせろ」という言葉は未だに忘れられない。」と語っている。たけし軍団の一員にも、これらを叩きこんでいる。

深見は漫才軽演劇より一段下に見ていたようで[注釈 5]、たけしはコントでの出世を模索していたこともあったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定の相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、フランス座で共に、コントを行っていたこともある松鶴家二郎(相方であるビートきよし)に漫才コンビを組まないかと誘われ「漫才で勝負したい」とたけしが申し出た時も激怒し、破門を言い渡している[注釈 6]。だが、深見からしてみれば、自分が気にかけた弟子が去っていく事の寂しさの方が大きかったと言われている。その後、ツービートが漫才でメキメキ頭角を現していく姿を喜び、ツービートの出演するテレビ番組に見入っていたという。

たけしが久しぶりにフランス座を訪れた時、深見は「何しに来やがった馬鹿野郎この野郎、元気か?」「来るなって言ったろう馬鹿野郎、腹減ってないか?ラーメンでも食うか?」と照れと嬉しさが入り交じった態度で迎えた。破門を解かれたたけしも忙しい合間に深見をたびたび訪問するようになる。その様子を「まるで実の親子のようだ」と評する者もいた。

たけしが1982年度の日本放送演芸大賞を受賞した際、「小遣いだ」と言って賞金を全て深見に渡した。深見は馴染みの飲み屋で「タケの野郎がよ、生意気によ、小遣いだなんて言ってよ」と何度も嬉しそうに語っていたという。失火で死去する1か月前の事であった。

たけしはフジテレビの『オレたちひょうきん族』収録中、楽屋で深見の訃報を聞いた。しばし絶句した後たけしは、壁に向かい俯きながら無言でタップを踏み始めた。

深見の葬儀の後、たけしは札幌での仕事のため羽田空港へ向かった。待ち合わせていた高田文夫に「深見のおとっつぁんもバカだよな。死んだら人が焼いてくれるのに、自分で焼いちめえやんの」と師匠譲りの毒交じりの一言を口にしたという。

生前、深見はたけしに「俺にはお前にも教えていないとっておきの芸がある」と語っていたという。たけしはその芸がどのようなものであるのか幾度となく尋ねたが、深見は頑として答えなかった。「この芸を見たら、どいつもこいつも驚いてひっくり返る」とまで豪語していたその芸は、深見の死によって永久に謎のままとなった。

たけしは後に「自分は有名になる事では師匠を超えられたが、芸人としては最後まで超えられなかった」と、深見の偉大さを語っている。

深見に師事・影響を受けたとされる人物

ツービートビートたけしビートきよし

コント55号萩本欽一坂上二郎

トリオ・スカイライン東八郎原田健二青空球児、後に小島三児

てんぷくトリオ三波伸介戸塚睦夫伊東四朗

ラッキー7(ポール牧関武志

スリー・ポケッツ(関敬六渥美清谷幹一、後に海野かつを

トリオ・ザ・パンチ内藤陳、鳴美信、井波健他多数)

阿佐田哲也(色川武大)

長門勇

井上雅義

南出昭夫(城東健。上述の化粧品会社社長。)

ナンセンストリオ(江口明、岸野猛青空球児、のちに前田麟)

他多数

関連書籍

ビートたけし:『浅草キッド』(
太田出版・1988年)

伊藤精介:『浅草最終出口 ―浅草芸人・深見千三郎伝』(晶文社・1992年)

井上 雅義:『幸せだったかな ビートたけし伝 』(白夜書房・2007年)

ビートきよし:『もうひとつの浅草キッド』(双葉社・2016年)

ビートたけし:『フランス座』(文藝春秋・2018年)

深見を取り扱った放送番組・映画・舞台

驚きももの木20世紀ABC) - 深見と最後の弟子であるビートたけしとの師弟愛のドキュメントが紹介され、その際、深見が出演した数少ないテレビ番組である、『デン助劇場』での出演シーンが放送されている。

ビートたけしの浅草キッド・青春奮闘編テレビ朝日) - 中条静夫が深見を演じる。

菊次郎とさき(テレビ朝日) - ガダルカナル・タカが深見を演じる。

浅草キッドの「浅草キッド」パーフェクト・チョイスペイ・パー・ビュー方式で放送されたテレビドラマ。石倉三郎が深見を演じる。

たけしのニッポンのミカタ!(テレビ東京) - 「たけしの唯一の師と仰ぐ人物で、テレビ出演を拒否し、最後まで浅草の舞台で芸人人生を全うした」と紹介を行った。

ビートたけしのオールナイトニッポンニッポン放送) - 深見の弟子であるビートたけしがたびたび深見の話題を取り上げている。


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