深名線
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^ 1955年9月2日 - 1956年9月19日は仮乗降場。
^ 1956年5月1日 - 1987年3月31日は仮乗降場。


深名線(しんめいせん)は、かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅宗谷本線に接続していた。

営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから[新聞 1]1995年(平成7年)9月4日廃止された[新聞 2]
歴史
全通までの経緯

深名線の沿線地域とされる雨竜川上流地域へ、最初の開拓民が幌加内地域に定着したのは1897年明治30年)である[2]。この時点でまず雨竜川沿いに道路が建設され[2]、その後明治時代末期までに士別和寒と結ばれる道路が開設され[2]、幌加内地域の各集落と他の地域を結ぶメインルートとなっていった[2]

この地域における鉄道敷設計画は、1911年(明治44年)に幌加内地域に移住してきた吉利智宏が、深川から三股(後の朱鞠内地区[2])を経て音威子府に至る軽便鉄道の建設を請願したのが始まりとされている[3][注釈 1]。これが、周辺地域の多度志・深川などの地域と連帯した運動となり、1916年大正5年)には「雨竜鉄道期成同盟会」が結成された[2]。これらの運動を受け、1918年(大正7年)には政府によって深川から三股に至る軽便鉄道の建設が決定した[3]。なお、この年には雨竜郡上北竜村から幌加内村が独立発足しており、発足時の人口は4,690人であった[2]

この鉄道は雨竜線として1922年(大正11年)に着工し[4]、深川 - 朱鞠内間を6工区に区分し、他に深川駅構内の拡張工事が行われた[5]。まず深川駅から多度志駅までの区間が第1工区として1922年(大正11年)12月16日に起工し、1924年(大正13年)9月25日に竣工、同年10月25日に開通した[4][5]。続いて第2工区として、多度志駅から鷹泊駅まで1925年(大正14年)6月16日に起工し、1926年(大正15年)11月10日に開通した[3][5]。第3工区となる多度志駅から幌加内駅までの区間は1925年(大正14年)11月16日に起工したが、途中の幌加内トンネルの地質が悪かったことから難工事となり、1日平均1メートルしか掘削できず、工期を予定より1年伸ばして1929年昭和4年)5月15日に竣工し、同年11月8日に開通した[3][5][6]。第4工区は幌加内駅から政和駅まで1928年(昭和3年)11月16日に起工し、第5工区はさらに添牛内駅まで同年11月6日に起工して、どちらも1931年(昭和6年)9月15日に開通し[3][6]、第6工区の添牛内駅 - 朱鞠内駅間は1931年(昭和6年)7月13日に起工し、1932年(昭和7年)10月25日に開通[3][6]というように小刻みに延長している。深川 - 朱鞠内間の総工費は4,467,778円であった[7]。また、1931年(昭和6年)10月10日付で路線名称が幌加内線に改称されている[4]。鉄道建設と並行するように雨竜ダムの建設計画が進められており[4]、1938年(昭和13年)に着工した雨竜ダムの建設工事と、貯水に先立って行われた水没地域の森林伐採・木材輸送には幌加内線が使用された[4]

一方、1922年(大正11年)に公布された改正鉄道敷設法の別表第143項には「天鹽(塩)國名寄ヨリ石狩國雨龍ヲ經テ天鹽國羽幌ニ至ル鐵道」が盛り込まれ[4]、また1929年(昭和4年)からは札沼線石狩沼田駅から多度志駅を結び、朱鞠内駅から天塩線(当時。現在の宗谷本線佐久駅を結ぶ札佐線の建設運動が開始されている[4]。こうした状況下、1935年(昭和10年)には名雨線として名寄駅から朱鞠内駅までの区間が着工され[4]、全区間を4工区に分けて工事が進められた[7]1937年(昭和12年)11月10日には名寄駅から初茶志内駅(後の天塩弥生駅)までが開通した[4]。さらに、1939年(昭和14年)10月10日には初茶志内駅から朱鞠内駅までが開通[3]、同時に幌加内線と名雨線を統合して深名線に改称された[3]。名寄 - 朱鞠内間の総工費は509万4000円であった[1]

こうして、深川駅と名寄駅の間は、函館本線・宗谷本線を経由する旭川駅回りと、深名線を経由する朱鞠内駅回りの2経路を有することになった。しかし深名線経由の方が13.4 km長く、途中に25 ‰の勾配区間が5か所あり、半径250 mの曲線も多かったため輸送力が小さく、結局沿線の開発とダムの建設に貢献したに留まった[8]
戦後

戦後になると、雨竜ダムによって出現した人造湖は観光資源としての価値を評価され「朱鞠内湖」と命名され、観光地となった[2]。また、ダム建設終了後も木材輸送は活発な状態で[9]、沿線地域の中心的交通機関としての役割を果たしていた[9]。1955年(昭和30年)からはレールバスを導入の上で旅客列車の増発が行われ[4]、それに伴い利用者も増加[9]、レールバスでは需要に応じきれずに通常の気動車へ置き換えられることになった[9]。また、1955年(昭和30年)9月には円山・宇摩・下幌成・新成生・上幌加内・下政和・大曲・共栄の各乗降場が、1956年(昭和31年)5月には湖畔仮乗降場が新設されている[4]

1960年(昭和35年)以降は駅の無人化や貨物扱いの集約など、合理化が行われるようになった[9]。この時期が沿線の人口も最も多い時期で、1960年(昭和35年)の幌加内町[注釈 2]の人口は12,016人に達しており[2]、同年の深名線の輸送人員は140万7千人であった[9]

なお、1955年(昭和30年)前後には道北バスによる幌加内と和寒を結ぶバス路線と、名士バスによって添牛内と士別を結ぶバス路線が運行した記録が残っている[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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