2002年9月25日、前立腺ガンの脊椎転移を公表し[7]、『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の製作を発表。12月16日からクランクインするが、21日にがんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。23日に定期の放射線治療、29日に体力の低下による風邪から肺炎を併発、31日に自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着し、一時危篤状態になった。
2003年1月初頭、小康状態に回復。5日に同作のプロデューサーで長男・深作健太が監督を代行することとなった。7日、配給を担っている東映が会見を開き、健太と岡田茂が出席し、「翌月早々に復帰」と説明されたが、4日後の11日夕方には容態が悪化。妻・中原早苗と健太、菅原文太[7]、健太から連絡を貰った渡瀬恒彦や藤原竜也が[8]、臨終に立ち会った。12日の午前1時、死去。72歳没。
15日、築地本願寺で通夜が営まれ、喪主を務める深作健太が選曲した20曲が流れるなか、弔問客が献花を行った[9]。中原早苗は終始、ハンカチを離さず悲しみの深さをうかがわせ、健太は弔問客に気丈に応対していたが。ロサンゼルスから駆けつけた千葉真一にねぎらいの言葉をかけられると、健太は涙をあふれさせていた[9]。弔問にビートたけし・梅宮辰夫・緒形拳・津川雅彦・富司純子・三田佳子・藤真利子・渡哲也・小林稔侍・永島敏行・風間杜夫・平田満・藤原竜也・安藤政信・八名信夫・前田愛・前田亜季・竹内力・高岡早紀・薬師丸ひろ子・夏木マリ・宮本真希・柴咲コウ・加藤夏希・南果歩・渡辺えり子・松田美由紀・美輪明宏・山田洋次・崔洋一・降旗康男・沢井信一郎・奥山和由らが参列した[9]。
翌16日の午後、同所で葬儀・告別式が執り行われた[10]。千葉真一と[11]、菅原文太が[9]、それぞれ弔辞を述べ[9][11]、菅原が献花したときは映画『仁義なき戦い』のテーマ曲がかかった[9]。映画『蒲田行進曲』『バトル・ロワイアル』のテーマ曲や、深作の好きな越路吹雪の『バラ色の人生』、THE BLUE HEARTSの『1001のバイオリン』が流された[9]。深作はフリーとなっていたが[12]、東映は葬儀を全面的にサポートした[10]。墓所は川崎市春秋苑。
2月7日に勲四等旭日小綬章を追贈され、1シーンしか撮れなかった遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』は健太とともに監督としてクレジットされている。 アクション映画やヤクザ映画以外でも、『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などの時代劇、『火宅の人』『おもちゃ』のような文芸、『ガンマー第3号 宇宙大作戦』『宇宙からのメッセージ』『復活の日』などのSF、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』のようなホラー映画、と幅広い作品を残している。文芸作品に取り組んでも「文芸アクション」と呼ぶ深作にとって、荒唐無稽やウソの物語をいかにリアルに仕上げるかを真骨頂にし、そのような作品では実に楽しそうに撮っていた[13]。「いい監督にとって、役者は単なる色、絵の具でしかないという感じがするときがある。僕はそれは違うと思う。どんなに日にちがかかろうと、金が掛かろうと、芸術映画ならばいいという巨匠もいるが、僕は映画を衰退させたのは、そういう巨匠にも責任があると思う」と語っている[7]。 日本のみならず世界でも劇場公開されており、クエンティン・タランティーノやジョン・ウーらは崇拝していることを明言している。全作品のうち『ファンキーハットの快男児』と『おもちゃ』以外のすべての作品で人の死を描いているが、戦争という巨大な暴力を体験したことで「暴力を描くことで暴力を否定しよう」という考えが根底にあり、決して暴力を肯定していた訳でなく、だからこそ様々な批判を受けても最後まで作風を変えなかった。「私も戦中派のしっぽにぶら下がっているが、今の人間のありようには、エネルギーのようなものが感じられない。平和は結構なことだが、その中で人間が衰弱してしまっているのではないか」と最後の作品でも暴力描写にこだわり、闇市の中で自ら体験した「生きることへの希望」を、再び現代社会に訴えようとした[7]。 深作作品には欠かせない存在だった千葉真一にとって[14]、深作はかけがえのない師匠であり盟友だった[2][13]。千葉が1990年代からハリウッドに拠点を移していた際に「(千葉が)まだ独りでロサンゼルスに住んでいたころにわざわざ来てくれてね。そのころまだ自炊をしていたので、自分で作った料理を食べてもらったんです。『おい、いつの間にこんなに料理がうまくなったんだ(笑い)』って言われましたよ。滞在中は映画の話をたくさんしました」と述懐している[2][13]。千葉はインタビューの際、最も尊敬する映画監督である深作を世界で活躍してほしかったこともあり、キンジ・フカサクと敬意をこめて呼んでいる[15]。 干されていた室田日出男、大部屋でくすぶっていた川谷拓三・志賀勝らを抜擢し、ピラニア軍団として知らしめた[5]。福本清三は「監督は大部屋俳優の名前を覚えてくれず、『そこ』、『おい』程度でしか呼ばれないが、深作監督はわしら大部屋俳優でも名前で呼んでくれた」と証言している[16]。初めて東映京都撮影所で演出した際には殺陣師・擬斗師がいるにも関わらず、自ら殺陣や擬斗を細かく指示し、福本ら大部屋俳優のシーンにも綿密にリハーサルをしたので大部屋俳優たちに驚かれた[16]。映画の打ち上げ時に福本は「スターさんにあまり言わないで、なぜわしら(大部屋俳優)に細かく指示するのか? 自分たちは撃たれる時も殺される時も、かっこよくできる」と思わず質問[16]。深作は「(大部屋俳優には)台本も渡されてないから、なぜ殺されるのか、殺された後、組がどうなるか、状況や背景を説明してるんだよ。映画はスターだけじゃなく、映っているみんなが主役なんだ。スターさんがどんなに一生懸命でも、スクリーンの片隅にいる奴が遊んでいたら、その絵は死んでしまう。だから同じ子分でも、それぞれが個性を出して殺されてほしいから、うるさいだろうけど、細かく指示を出すんだよ」と諭した[16]。
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