淮海戦役
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そのため?介石華中の黄維と蚌埠の李延年、劉汝明の各部隊に対して北に向かって進軍し、宿県を奪い返すよう命じた。さらに、徐州の邱清泉と李弥の各部隊に対しては、東進して黄百韜の部隊の救出にあたるよう命じた。しかし、邱清泉は黄百韜との間における積年の恨みが強く、さらに共産党から逆に包囲されることを恐れたこともあって、黄百韜の第7兵団を包囲から解放するために部隊を投じることをすぐにはしたがらなかった。結局、11月22日になって第7兵団の10万人は解放軍によって全滅に追い込まれ、黄百韜は自ら命を絶った(一説には、包囲網を突破しようとした際に、共産党軍の銃撃に遭って死亡したとも言われている)。また、蚌埠の李延年と劉汝明の部隊は共産党軍に真っ先に攻撃されることを恐れたため北進を先延ばしにしたため、華中の黄維を孤立させてしまい、かえって国軍にとって極めて不利な情勢を作り上げてしまっていた。
第二段階

11月23日、人民解放軍の中原野戦軍は、南方から増援に来ていた黄維の第12兵団を宿県の南西にある双堆集地区で包囲した。この時、淮海戦役の戦況は南京政府にとってきわめて不利な状況であった。黄百韜の部隊が殲滅され、徐州から蚌埠に向かう退路も宿県が占領されていて切断されていた。さらに華中から増援に来た黄維の第12兵団も包囲され、全滅の危機にあった。

このような状況に至り、国軍本部も徐州にいた邱清泉、李弥、孫元良の3部隊に対し、徐州を放棄して江南に撤退するよう命令せざるをえなくなった。11月28日、国軍の徐州攻撃総司令だった劉峙は徐州を離れた。さらに、11月30日には副総司令の杜聿明の指揮により30万人の徐州守備部隊が徐州を放棄して南西に撤退した。しかし、?介石からの命令によって途中から部隊の向かう先が変わった。徐州から南東に出撃して黄維の部隊の救出にあたるというものであった。邱清泉と李弥の部隊は兵を南東に向けたが、結果として道中で華東野戦軍に包囲されてしまう。

12月6日、国軍の第16兵団は、足並みの乱れから誤って包囲網突破を試みて部隊の大半を失った。同日、共産党軍は黄維の第12兵団に対して攻撃を開始し、12月15日までに12万人の損失を与えた。司令の黄維は生け捕られ、副指令の胡lは重傷を負いながらも戦車で包囲網を突破することができた。国民革命軍の34個師団が失われ、邱清泉と李弥の部隊の22個師団も包囲されたことにより、国民党側の敗色は濃厚となった。共産党側は20日間の休息を得ると共に、その間に杜聿明に対して投降を呼びかけたが拒否された。
第三段階

1949年1月6日、共産党軍は包囲していた杜聿明の部隊に対して総攻撃を開始した。攻撃によって第13兵団の大半が失われ、残った者たちは第2兵団の下へ敗走した。しかし第2兵団も、攻撃により第2兵団司令官の邱清泉が自殺したほか、杜聿明が捕虜となり、李弥も捕らえられたが後に脱走に成功している。蚌埠にいた李延年と劉汝明の部隊が淮河から長江にかけての地区を放棄し、長江南岸に撤退したことにより、淮海戦役は終結した。
原因と影響

歴史学者の杜維運は、「国共内戦の戦いは、実際には三大戦役しかないと言われているが、三大戦役も実際には一大戦役しかない」と述べている。前後の遼瀋戦役と平津戦役は、明らかに解放軍側に地の利と人数での優位性があったためである[1]

淮海戦役で勝利を収めた共産党軍は、長江以北の華東地域と中原の広い地域を影響下に置くことができるようになった。これにより、当時中華民国の政治的中心地であった南京や経済的中心地であった上海は、共産党軍の直接的脅威のもとにおかれた。また、淮海戦役を通じて?介石の黄埔軍系の損失が大半を占め、政府内における?介石の地位を揺るがすこととなった。李宗仁白崇禧といった新広西派はこの機に乗じて?介石を攻撃し、翌年には?介石が引退に追い込まれることとなった。経験のある主力部隊の損失は、その後の戦闘における国民党軍の戦力低下を招き、地方で徴用された者と再編された小軍閥が多くを占めるようになったことから、反攻することができずに、共産党軍の長江渡河と、長江以南の平和的解放を許すこととなった。

淮海戦役を題材とした作品

映画

『大決戦』1991年中国 八一電影制片厰

戦場のレクイエム』2007年中国 華誼兄弟影業公司


脚注^ 張福群1995『?介石功過録』P122










国共内戦

主要な交戦相手

中国国民党    中国共産党

1945年以前1945年以降現代

1924年第一次国共合作
1926年中山艦事件
1927年南京事件
上海クーデター
寧漢分裂
南昌起義
秋収起義
広州起義
1929年中ソ紛争
1930年–1934年掃共戦(英語版)
1931年–1934年中華ソビエト共和国
1933年–1934年福建事変
1934年–1936年長征
1936年西安事件
1937年–1946年第二次国共合作

1945年重慶会談
双十協定
1945年–1947年マーシャル使節団(英語版)
1945年–1949年ブリーガー作戦(英語版)
1946年–1949年第二次国共内戦
1948年江亜沈没事故
遼瀋戦役
1948年–1949年淮海戦役
平津戦役
1949年太平輪沈没事故
渡江戦役
アメジスト号事件
中華民国政府の台湾への移転
新疆侵攻
1950年–1958年中国における国民党イスラーム暴動(英語版)
1950年海南島戦役
万山諸島戦役(英語版)
チャムドの戦い(中華人民共和国によるチベット併合)
1954年トープス号事件
1955年第一次台湾海峡危機
1958年金門砲戦
1960年–1961年中緬国境における作戦(英語版)
1987年37事件(英語版)
1996年第三次台湾海峡危機
2005年–現在2005年中国国民党和平の旅(英語版)


台湾問題

中国統一

台湾独立運動

両岸関係史



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