?水の戦い
[Wikipedia|▼Menu]
とはいえ、兵力は8万ほどであり[6]、前秦軍の半分にも満たなかった。謝玄は出陣する前に謝安を訪ねて軍略を質問したが、謝安は平素と変わることなく落ち着きはらって「考えはある」とだけ述べて具体的に語ろうとはしなかった[7]。そのため謝玄はやむなく引き下がったが、心配なので使者を派遣して質問しても同じ答えであり、謝安が親族や友人を集めて田舎の別荘で楽しんでいるのを聞くとたまらなくなって再び自ら訪ねたが、謝安は別荘をかけての囲碁の手合わせを所望した[7]。謝安の囲碁の腕は謝玄より下だったが、この日は何故か謝玄は勝てなかったという[7]

また桓沖が建康の守護のために西府軍から3000人の精鋭を割いて派遣してきたが、謝安は西の守りのほうが重要であるとして断った[7]。桓沖は謝安が遊興にふけっているのを聞いて「謝安は廟堂の謀略は持っていようが、戦略にはいかにも素人。大敵が今にも来るというのに、戦の経験のない若者を駆り出して防がせ、自分は呑気に遊んでいる。我々は胡に降参する日が来たらしい」と嘆息した[8]

史書では謝安がこのような態度をとったのは周囲の朝臣を安堵させ動揺させないためであったとされ、実際に謝安に軍略があったのかどうかに関しては不明とされている[8]。桓沖の援軍を断ったのは、前衛を突破されたら3000の兵力では役に立たず、あえて断ったとされている[8]
前秦の内部事情

太元7年(382年10月、苻堅は長安の太極殿において東晋討伐を群臣に諮った[3]。皇族では末弟で苻堅の補佐である苻融、少子の苻?、苻堅が信任する仏僧道安などはいずれも反対した[3]。一族群臣の多くは、「東晋には謝安らの人才が揃っているし、長江の険に守られているので攻撃はたやすくなく、中原平定の後間が無く将兵が疲れている」として時期尚早であるとして反対論を唱えたり[9]、「晋を討つべからずと言う者は忠臣なり」と涙を流して諫言したりした[10]。これに対して苻堅は「朕は大業を継承して20年になんなんとしている。逃げる賊を平らげ、四方はほぼ平定したが、ただ東南の一隅にまだ朕に従わない者がいる」と発言した[3][注釈 4]

一族・家臣皆が反対する中、慕容垂のみが「弱者が強者に併合されるのは当然の理で、今や陛下の威は海外に伝わり、虎の如き軍兵100万。韓・白(韓信白起のこと)のごとき勇将が朝廷に満ちています。今主命に従わぬのは米粒のような江南のみ。何を躊躇されることがありましょう」と述べて賛意を示し、苻堅は「朕と共に天下を定める者は、ひとり卿のみ」と大変喜んだという[11]。しかし慕容垂は内心では「主上、甚だ驕気。我が族の中興の業をなすはこの際にあり」と喜んでいた[6]。これで苻堅は南征を決心した。たまりかねた重臣は信任厚い高官を通して苻堅を思いとどまらせようとし、愛妾の張夫人(苻?の生母)ですらたまりかねて「天の聡明は我が民の聡明による」と『書経』の言葉を引用して諌めたが「軍旅は婦人の預かるべき事ではない」とはねつける有様だった[11]

これには兵力で圧倒的に優位だったことや苻堅自身の天下統一に対する野望、国境における東晋の現実的脅威などもあったためでもある[12]
?水の戦い

太元8年(383年)5月、前秦軍南下の情報を聞いた東晋は先んじて行動を起こし、車騎将軍の桓沖に襄陽を、輔国将軍の楊亮に蜀を攻撃させた[12]。前秦はこれを押し留めた[12]

8月、苻堅は弟の征南将軍苻融・驃騎将軍張?・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成・平南将軍慕容?・冠軍将軍慕容垂らに25万の軍を預けて先鋒とし、自らは歩兵60万余・騎兵27万と言う大軍を引き連れて長安を出発した[12]。この大軍は3つに分かれ、梁成と王顕は彭城(現在の江蘇省徐州市)から、一隊が蜀・漢中から長江と漢水を下って西から、苻堅と苻融の主力軍が潁水を下って項城(現在の河南省周口市沈丘県)から建康を目指した。

10月、苻融の軍は東晋の首都建康の西北西200kmに位置する寿春を陥落させ、梁成の軍は洛澗(淮水の支流、寿春の東方)で駐屯した[12]。東晋の宰相謝安はこれに対して弟の征討大都督謝石と甥の謝玄に7万の水陸両軍を預けて洛澗を攻撃させ、両名は夜襲をかけて梁成を殺した[12]

その後、東晋軍は?水に進み、前秦軍も本隊は項城に置いたまま苻堅が8000騎の護衛と共に寿春に入って先鋒と合流した[注釈 4]。両軍は河を挟んで対峙し[12]、苻堅は降伏勧告の使者に朱序を送ったが、朱序は東晋の軍に入ると「前秦の100万の軍が集結してしまうと勝てません。先鋒を挫けば良いでしょう」と謝石達に対して進言した[13]。謝石もこれを受け、東晋軍は勇猛で名高い劉牢之の軍勢に前秦軍の前衛部隊を攻撃させ、勝利した[13]

この敗戦で苻堅は東晋軍が予想に反して精強である事を悟り、恐れを抱いた[13]。?水対岸の東晋軍営を望み見た苻堅は「憮然として始めて恐るる色あり」という状態だったといわれ、八公山の草木すら敵兵に見えたとまで言われるほどだった[13][注釈 4]。この時、謝玄が派した使者が苻堅に対して「渡河して戦おうではないか」と誘いをかけ、苻堅もこれに乗った[14]。一部の武将は兵力の優位を生かしての強硬策を主張したが聞き入れられず、苻堅はこの時に自軍を少し引かせることで相手を誘い込み、東晋軍が河を渡りかけたところでこれを撃つという、いわゆる「半渡」を狙うことにした[14]

前秦軍は予定通りわずかに後退し、それを追って東晋軍が渡河した。ここで反転するはずであったが、兵士達の後退の足は止まらない。兵士達に苻堅の考えた作戦は説明されておらず、しかも前秦軍は異民族や漢人の混成部隊で後退することが退却することと勘違いされたのである[14]。しかも朱序が軍内を走り回り、「負けた、退却だ!」と喧伝して回っていた。後ろから渡河を終えた東晋軍が襲いかかり、前秦軍は総崩れになった。苻堅は流れ矢に当たって負傷するが単騎で逃げた[12][15]。前秦軍は大混乱になり、軍兵の7割から8割が死傷する大敗となった[12]。主だった者では弟の苻融が戦死した[12]。また、苻堅の雲母車をはじめ、儀服・器械・軍資・珍宝など数えきれない程の物資や10万頭を超える家畜も東晋軍に鹵獲された[注釈 5]。苻堅は敗走途中でただ一軍無傷であった慕容垂により保護され[12]、12月に長安に帰還した[12]

この敗戦の様を史書では「前秦の兵、大いに敗れ、自ら倒れ、下敷きとなって死す者、野をおおい、川をふさぐ。その走る者、風声鶴唳を聞き、みな思えらしく、晋の兵まさに至らんとすと。草行(道の無い所を逃げ走る事)露宿し、かさぬるに飢凍をもってし、死する者十に七、八」とある[14]。なお、風の音、の鳴き声に敵かと驚く敗残の哀れさを風声鶴唳というのは、この戦いから出た故事である[15]
戦後
東晋

この戦勝の知らせが届いた時、謝安は客と囲碁を打っていた。この報を聞いた客からどうなったかを聞かれて「小僧たちが賊に勝った」と平然とした振りをしていたが、客が帰った後に部屋の中で小躍りし、下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという[16][14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef