教育は、普通学(12科目、歴史、地理、国語、数学、物理、英語など[5])・軍事学(9科目)・体育(ラグビー、プールでの遠泳訓練や綱引きなど[6]10種目)の他、精神講話[6]などもあり、当初の履修期間は2年11か月だった。その後、履修期間は徐々に短くなり、終戦直前には1年8か月で、海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。甲飛の履修期間も当初の1年2か月から終戦前には6か月に短縮された。修了後は練習航空隊で飛練教育を受け、その後実戦部隊に配備された。また、戦時中であっても英語の学習はそのまま実施されていた[7]。
一日中訓練漬けではなく、休憩や自習の時間もあった[6]。そして情操教育の一環として、ほぼ毎月のように映画の上映会があった。映画は『ハワイ・マレー沖海戦』や『桃太郎 海の神兵』など国策映画が多かったが、『宮本武蔵』や『無法松の一生』などの時代劇や、同盟国だったドイツ映画の『世界の敵
』、『潜水艦西へ』が上映されることもあった[8]。また終戦間際でも夏季は10日間の休暇が2?3回は設けられていた[9]。甲種飛行予科練習生制度の導入以降、両制度を甲・乙と言う優劣を表す名前に変更した為、また昇進速度の違いなどもあり、練習生間での対立が問題となった。予科練航空隊を増設する際滋賀海軍航空隊の様に甲飛のみと分けた航空隊もあった。一方で甲飛・乙飛を分離する計画もあった、しかし戦況の悪化によって後発航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。
予科練生の生活智恩寺にある供養塔
当初は水兵服であったが、1942年(昭和17年)11月からは制服を軍楽兵に範を取った濃紺の詰襟制服を採用する事になった。制服にはに海軍の象徴である桜と錨が描かれた7個のボタンが付いており、七つボタンは予科練を表す隠語となった。海軍兵学校の反対により、練習生の制服には佩刀の制度はない。服制の詳細については、軍服_(大日本帝国海軍)#飛行練習生等参照。
制服の金のボタンは「世界の7つの大陸・七大洋」と「月月火水木金金」の訓練を表していた
予科練の宣伝のため戦意高揚映画『決戦の大空へ』が製作された。主題歌の『若鷲の歌』の歌詞には桜と錨や七つボタンなど制服の特徴が登場する。
出身者はマスコミなどから荒鷲の通称で呼ばれていた[10]。
土門拳は海軍に訓練風景の写真撮影を依頼され1944年6月から1ヶ月間、甲種十三期三十一分隊と共に生活をしている。構図にこだわるあまり訓練を何度もやり直させるため、予科練生らには不評だったという[6]。
海空の自衛隊では操縦士の早期育成制度として高卒者を対象とした航空学生を継続している。特に海上自衛隊は制服が『桜と錨が描かれた七つボタンの詰襟』、学生歌が『若鷲の歌』の歌詞を変更した『海の若鷲』であるなど予科練の伝統を引き継いでいる。
1943年10月には兵舎として天理教の信者詰所が徴用された。予科練生が入る前に海兵団から選ばれた100名程が掃除を行っており、この中には新藤兼人がいた[11]。
予科練の食事は、週一の割合で、パンと紅茶、子供用に甘くした豆やカボチャ、そして肉料理が出されたが、終戦間際の7月や8月になっても献立が変更されることはなかった。しかし肉の臭いに慣れず、カレーやシチューのバター臭さに辟易する者もいたという。さらに田舎出身者はもやしを見たことがない者もいて、「さすが予科練は大人数なのだな。芽が出た豆を食べさせる」と誤解した者もいたようである[12]。
教員が行う懲罰として、前支えやバットでひたすら殴るバッター制裁などがあったが、バッター制裁は海軍の恥部であったため、国策映画等では一切描かれていない[13]。
予科練出身の著名人