海軍南大東島飛行場
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しかし同年10月10日 (十・十空襲) の空中写真の解析[6]や、12月31日撮影の空中写真の解析[7]では、三本の滑走路が確認できるのみである。また住民の証言でも、南北に二本と奥に一本の三本に拡張されたとある[2]

米軍は1944年から偵察機を頻繁に飛ばし、沖縄島上陸以前から大東島飛行場を中心に島への空爆を繰り返した。特に1920年3月1日からは連日のように米軍機による空襲が行われ、2日の艦砲射撃は滑走路を標的にして粉々に破壊した。
旧南大東空港

戦後

1963年、米国民政府による滑走路などの整備が始まる。1964年7月30日には長年の大東島での土地闘争を経て、第3代高等弁務官キャラウェイが大東島の土地の払い下げを実現させ、南大東島の住民がはじめて地権者になる権利を得た。その12月には滑走路が完成し、1200mの滑走路から那覇間のYS-11型機が就航するようになる。

1972年、沖縄の本土復帰に伴い、日本国の航空法が適用されることになると、滑走路を800mで短縮して運用されることとなった。このためYS-11型機にかわって、デ・ハビランド・カナダのDHC-6型機が那覇間で就航するようになるが、天候の影響を受けやすく、安定した就航は難しかった[8]

1997年、東海岸側に新しい南大東空港が建設され移転したため、旧南大東空港は廃止された。

2007年、ラム酒の会社が滑走路跡地に設立された[9]
脚注^ 「大東諸島戰時日誌」沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)pdf
^ a b c 「南大東島の戦時状況」沖縄縣史 pdf
^ 川田文子「70年余を経た複郭陣地跡と「慰安婦」の写真」商学論纂(中央大学)第58巻第5・6号(2017年3月)65頁
^ 福地曠昭『哀号・朝鮮人の沖縄戦』(月刊沖縄社 1986年) 頁180-182
^ 防衛研究所収蔵・第三航空艦隊司令部「南西諸島航空基地一覧図」(昭和19・11)
^ Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6
^ “ ⇒写真が語る沖縄 ? 沖縄県公文書館”. www2.archives.pref.okinawa.jp. 2024年2月26日閲覧。
^ “廃空港で酒作り!? 「旧南大東空港」のビックリな転身 見た目は旧空港そのまま 中身は…”. 乗りものニュース (2021年1月1日). 2024年2月26日閲覧。
^ “泡盛じゃない、沖縄の地酒は「空港」で作られていた! ニュースイッチ by 日刊工業新聞社”. ニュースイッチ by 日刊工業新聞社. 2024年2月26日閲覧。

関連項目

沖縄の旧日本軍施設

南大東島


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