海軍予備員
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海軍予備学生の身分は生徒三校(海兵海機海経)の生徒に準ずるものとして制定され、1942年以降は各科少尉候補生に準ずる身分へ格上げとなった。旧制高等学校旧制専門学校高等商船の生徒がこれに採用される。当初は、東京及び神戸の高等商船学校の生徒を、入学と同時に海軍予備生徒と称し、全員を兵籍に編入したものであったが、戦争の拡大に伴い、他の旧制高等学校の生徒に対しても選抜を実施し、合格者を予備生徒としてその学資を海軍が支給することとした。予備生徒は、通常は所属学校の制服の襟部に錨の襟章を付け、予備生徒であることを示した。ただし、高等商船学校生徒の海軍予備生徒は、学校卒業と同時に予備少尉に任官するのに対し、一般高等学校生徒の予備生徒は、学校卒業と同時に予備少尉候補生として1年6か月の教育期間を経て予備少尉に任用されるなどの違いがあった。
主な出身者
飛行科予備学生

第1期:昭和9年採用(5名) 海軍航空予備学生と呼ばれ6名採用予定、1人が適性試験失格になり5名が予備少尉に任官した。

第2期:昭和10年採用(15名)

第3期:昭和11年採用(17名) 第3期までは1年間の教程の後に予備少尉に任官、民間に戻った。(後に予備役召集)

第4期:昭和12年採用(14名) 以後は学生教程を修了し予備少尉に任官し即時召集。軍務に就く

第5期:昭和13年採用(20名)

第6期:昭和14年採用(30名)

第7期:昭和15年採用(33名)

第8期:昭和16年採用(44名)

第9期:昭和17年採用(38名)

第10期:昭和17年採用(100名) 各科少尉候補生に準じる扱いとなり、海軍兵科予備学生250名の中から適性検査を経て100名が飛行専修予備学生として選抜された。

第11期:昭和17年採用(102名)

久納好孚特攻により戦死。海軍少佐。


第12期:昭和17年採用(70名)

第13期:昭和18年採用(5,199名) 士官不足により大量採用となり、前期・後期に分かれた。前期は基礎教育期間を2ヶ月短縮した。

田中六助:海軍大尉。

加藤f:海軍中尉。


第14期:昭和19年採用

石丸進一:特攻により戦死(少尉)。海軍大尉。

大石政則:特攻により戦死(少尉)。海軍大尉。

小川清:特攻により戦死(少尉)。海軍大尉。

千玄室:海軍中尉。特攻隊員。

西村晃特攻出撃するも機体不調の為、帰投。



その他

流政之:海軍予備学生として入隊する。

松延市次:海軍予備学生として入隊する。


兵科予備学生

第1期:昭和17年1月採用(400名)

服部正也

山縣有信


第2期:昭和17年9月採用(482名)

阿川弘之東京帝国大学繰り上げ卒業、兵科予備学生第2期生として入隊し、軍令部特務斑にて対華諜報担当(少尉)、ポツダム大尉で復員。

安川定男


第3期:昭和18年9月採用(3,626名)

島尾敏雄九州帝国大学繰り上げ卒業、志願にて兵科予備学生第3期生として入隊し、第18震洋特別攻撃隊艇隊長として奄美群島加計呂麻島に配置、ポツダム大尉で復員。

松林宗恵:兵科予備学生第3期生として入隊し、廈門島守備隊長となった。ポツダム中尉で復員。


第4期:昭和18年12月採用(3,270名)

 いわゆる「学徒出陣」として採用された期。第1?3期まで及び第5?6期は、准士官の身分を持つ予備学生として採用されたが、本期だけは陸軍の要請で陸軍並び(陸軍は見習士官も二等兵で入隊し、順次昇進する仕組み)に二等水兵として採用され、約50日間二等水兵として服務した。



田英夫:東京帝国大学在学中に学徒出陣、海軍兵科第4期予備学生として入隊し、第16震洋特別攻撃隊艇隊長として八丈島に配置、ポツダム中尉で復員。

吉田満:兵科予備学生第4期生として入隊し、 戦艦大和に乗組。ポツダム中尉で復員。

庄野潤三:兵科予備学生第4期生として入隊し、ポツダム大尉で復員。

野原一夫:東京帝国大学在学中に学徒出陣、武山海兵団、第4期兵科予備学生を経て、海軍少尉として大和田通信隊に着任。鹿屋基地第5航空艦隊司令部付で終戦。

大久保房男慶應義塾大学在学中に学徒出陣。

阿部日顕:第4期兵科予備学生として入隊し、大湊海兵団に配属。



第5期:昭和19年8月採用(2,532名)

第6期:昭和20年4月採用(2,695名)

予備生徒出身者

三田一也東京高等商船学校航海科(現・国立東京海洋大学海洋工学部)首席。海軍中佐日本郵船を経て海軍に。終戦時は大本営海軍部海上護衛総司令部調査室長。戦後に海上保安庁警備救難監となり、Y委員会メンバーとして海上警備隊創設に関係する(海上自衛隊#海上自衛隊の創設参照)。

鈴木盛:東京高等商船学校航海科卒業。海軍中佐。召集歴の長い予備士官で、太平洋戦争中は海防艦対馬艦長。

山本平弥:東京高等商船学校機関科卒業。海軍大尉。大阪商船(現・商船三井)を経て海軍に。駆逐艦秋月機関部分隊士、海軍砲術学校長井分校教官を歴任。戦後、海上保安庁勤務。海上保安学校長、海上保安大学校教授、海技大学校長を歴任。海上保安大学校名誉教授。大阪大学工学博士

梅林孝次神戸高等商船学校機関科(現・国立神戸大学海事科学部)卒業。海軍予備員から現役に転官。海軍航空隊飛行士。日中戦争で戦死。海軍大尉

隈部五夫:神戸高等商船学校航海科卒業。大阪商船、東亜海運を経て海軍に。第154号海防艦長。海軍大尉。『機雷掃海戦?第154号海防艦長奮戦記』(光人社NF文庫)ISBN 978-4-7698-2572-2 の著者。

石井利雄:神戸高等商船学校機関科首席。海軍予備生徒機関科51期。海軍中尉。三井物産船舶部(現・商船三井)を経て海軍造船技師に。海防艦建造技師として、戦時中、43隻の海防艦を竣工させた。戦後、日本鋼管造船本部(現・JFEエンジニアリングユニバーサル造船)勤務を経て、日本ブラストマシン(現・JFEプラントエンジ)専務取締役。

野瀬清次:神戸高等商船学校機関科卒業。海軍少尉。大阪府庁を経て、神戸製鋼所にて潜水艦の建造に従事。戦後、石川島播磨重工業(現・IHI)に移り、相生工場長をつとめた。90歳を超えて人間総合科学大学に入学したことで話題を呼んだ[12]

森武:神戸高等商船学校航海科卒業。海軍少佐。川崎汽船を経て海軍に。海防艦82号艦長。終戦間際、ソ連軍機襲撃下の北朝鮮羅津港最後の脱出商船向日丸(むかひまる)を護衛して元山向け航行中に舞水端南西沖でソ連雷撃機編隊と交戦3機撃墜後、自艦が被雷轟沈。


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