海軍乙事件
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実際、モルッカ諸島のバチャン泊地(ニューギニア島西部)に第一戦隊などが進出しており、日本国外の文献ではジョン・ウィントンがこれを「あ号作戦」の実施のためと書いているが、実際は「渾作戦」のためであった[10]

6月17日、グアム西方600海里で日本の艦隊が発見された際も第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンスは日本軍の誘いに乗らず、マリアナの橋頭堡確保に専念した。レートンはこの作戦文書の入手により第5艦隊司令部が日本軍の作戦を知っていたからこそ、結果としてマリアナの航空兵力と艦隊からの挟撃を受けずに済んだ旨を述べている(戦いの詳細はマリアナ沖海戦参照)[11]

日本海軍の機動部隊はマリアナ作戦に先立って、フィリピン南西のタウイタウイ島の基地で航空機の搭乗員の訓練を行う予定であったが、このとき入手した「Z作戦」計画書に後のマリアナ沖海戦(「あ号作戦」)の基本となるアウトレンジ戦法等の考えやタウイタウイ島で訓練と補給を行う旨が記されており、そのため、米潜水艦隊がタウイタウイ島周辺に集中、洋上に出た艦船を攻撃してくるため、航空機搭乗員の洋上訓練を行うことが出来なくなったという。このときの日本海軍航空機の搭乗員の過半数は実戦経験の乏しい若者ばかりだったとされる。また、マリアナ作戦にあたって機動部隊航空兵力と協力してくることが予想されるサイパン島の航空基地を、マリアナ作戦に先立って米軍は徹底して空爆して叩いている。[12]

一方、カール・ソルバーグ著『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』によれば、マリアナ沖海戦(「あ号作戦」)にはこの計画書類の回送・分析は間に合わなかったように記されている。また、「新Z号作戦」は大まかに言って3通りの邀撃策を提示しており、マリアナ諸島の次の侵攻作戦を行った際に、日本軍がどの策を採用するかは不明であった。更に、「捷号作戦」が計画された際に、米陸軍との合同研究などによって作戦要領等も若干変化していた。その後、アメリカ軍の次期の大規模進攻はレイテ島に向けられることとなったが、日本軍の動静は、暗号解読、通信解析、地形・浜辺の調査、高高度からの偵察写真、墜落した敵機の分析、捕虜の尋問等に拠っても、推定しようとしていた。戦時であるからこれらの推定は多くの誤りも含んでいた。レイテ島の進攻に呼応して、「捷一号作戦」が発動された後も、出撃する日本艦隊に対処する任務を与えられていた第3艦隊は動静の全く掴めていなかった空母機動部隊小沢艦隊)を含む日本軍の航空作戦に気を取られ、戦策の一つとして示されていた水上艦の活用には注意が向いていなかったという。

24日の段階では第3艦隊は進撃する日本艦隊(栗田艦隊)に空襲を加えた(シブヤン海海戦)。その日の晩の集計では大和級戦艦1隻炎上傾斜、金剛級1隻損傷大、ほか戦艦2隻に爆弾魚雷命中、軽巡洋艦1隻転覆、重巡洋艦2隻に魚雷命中などと報告があり、第3艦隊司令部は栗田艦隊に壊滅的な打撃を与えたと判断した。加えて栗田艦隊は欺瞞のために一時反転していたことから、司令長官のウィリアム・ハルゼーはもとより首脳部は本当の意図に気付かず、夕方に索敵機が発見した小沢艦隊の捜索が目下の課題となっていた。

カール・ソルバーグは著書の冒頭にて「情報に関する一般的な仕事とは、敵の全てを知って、その知った事柄をどう解釈するか」であることを述べている。カールはこの戦いの時、第3艦隊司令部のスタッフとしてニュージャージー(USS New Jersey, BB-62 )に乗組んでおり、彼の同室者だった情報士官のハリスコックス大尉は計画書を別の観点から分析していた。ハリスコックスは第3艦隊の他のスタッフほど航空戦を経験してなかったため、航空機への過度な重み付けがなく、水上艦の動きに注目した。その結果、24日の夜、日本艦隊の本当の目的が栗田艦隊による輸送船団攻撃であるという結論に達した。彼は上司の情報参謀マリオン・チーク大佐にこの検討結果を伝え、チーク大佐は司令部の他の面々と作戦行動の変更を求めて掛け合ったが、ハルゼーは就寝中であり、司令部の中では航空参謀ホレスト・モルトン大佐などの声望が大きく、チークの司令部内での影は薄かった。このため、モルトンはこの推測をぞんざいに扱い、作戦行動には反映されなかった。25日朝、サマール沖で護衛空母群が栗田艦隊の攻撃を受け、その報告により司令部は騒然となった。その後、第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将による救援要請や、それを受けたチェスター・ニミッツからの電文などが続々着電し、第3艦隊は栗田艦隊を追撃するためにサンベルナルジノ海峡に向け反転した。靡下の第34、第38の各任務部隊に反転を指令する電文を起草したのはモルトンであった。
その他

戦陣訓に見られるように、当時の日本では敵の捕虜となることをこの上ない恥としており、福留がゲリラに捕縛されたことを敵の捕虜になったとみなすかどうかが問題となった[13]が、「戦時は捕虜にならなかった」という見地で不問になった[14]。福留は海軍上層部の擁護もあり、軍法会議にかけられることも、予備役に退かされることもなく、第二航空艦隊司令長官に着任し、海軍内の要路に留まった。福留は、けっきょく事件直後からその最期まで軍機を奪われたことを認めようとはしなかった。戦後、福留がGHQ戦史編纂の仕事をしていた大井篤のところに出向き、「君や千早が機密書類が盗まれたと言っており、迷惑している。こんな事実は全くないんだ。」と述べたところ、大井は「盗まれたのは事実です。お帰り下さい。」と追い返したと言う[15]。戦後、海軍は身内に甘い体質を持つと批判されたが、その理由として本件を挙げられることがある[16]

また、1944年(昭和19年)6月8日に決行の予定で、大本営から連合艦隊司令部に提案が行われ、おおむね合意は得られていた「雄作戦」が古賀の死によって検討段階で消滅した[17]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 中佐、当時第六艦隊参謀として一番機に搭乗。
^ 同書では福留が解放されるまでの過程について細部が異なる2つの説を挙げている。2番目の説では当初古賀が不時着に成功してゲリラに捕らえられ、解放前に死亡して遺体はパラオに送られたという内容である。ゲリラのリーダーはクッシング大尉という人物だったとなっている。しかし、訳者の左近允の解説にもあるように、実際には古賀の乗機は上述のように行方不明となったままであった。クッシングは春名幹男の著書では、前出の通りゲリラを指揮する米陸軍中佐と記されている(新潮文庫版p.179)。また、同書にはクッシングらが当初福留を古賀と誤解していたとも記されている(新潮文庫版、p.180)。

出典^ #海軍反省会W、317頁。
^ #海軍反省会W、318頁。
^ #海軍反省会W、322頁。
^ #海軍反省会W、321頁。
^ 佐々木孝輔 証言・昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション9「南海の空に燃え尽きるとも」光人社  著者は事件当時の八五一航空隊分隊長 pp.298~300 原出は同社の「」1984年10月号
^ #海軍反省会W348頁、鳥巣建之助[注釈 1]
^ a b #海軍反省会W、323頁。
^ 春名、2003年、180頁。
^ ジョン・ウィントン著 左近允尚敏訳「第十章」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』P217 (邦訳初出1995年)[注釈 2]
^ ジョン・ウィントン著 左近允尚敏訳「第十章」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』、220-221頁。
^ エドウィン・T・レートン(Edwin T. Layton)著 毎日新聞外信グループ訳『太平洋戦争暗号作戦(下)』、335-337頁。
^ “[証言記録 兵士たちの戦争]マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法 ?三重県・鈴鹿海軍航空隊?”. NHK 戦争証言アーカイブス. NHK. 2023年2月8日閲覧。
^ #海軍反省会W、297頁。
^ 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期461頁


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