1293年その同盟には北海、バルト海等に位置する24都市が参加した[6]。最盛期である14-15世紀には数百の都市が同盟に参加するようになった[6]。しかしハンザ同盟の船乗りたちは海賊行為の魅力に影響されて彼ら自身も海賊になって行き、14世紀後半に賑わいを見せたイギリスの貿易業に打撃を与えた[7]。13-14世紀のバルト海にはフィタリエンブリューダーと呼ばれる海賊団が存在した[6]。彼らはスウェーデンの南部に位置するゴットランド島を基地とした[6]。彼らはハンザ同盟の依頼で食物の補給を行っていたが、次第に同盟の船舶を略奪するようになった[6]。この海賊団の影響で幾つかの漁業は麻痺した[7]。
そのためスウェーデン女王マーガレットがリチャード2世の援助のもとで海賊退治の遠征を行ったが、これは失敗した[7]。1394年、ハンザ同盟は3000人の兵士を乗せた35隻の軍艦を海賊退治のために派遣したが、これも成功はしなかった[7]。1400年/1402年、ユトレヒトのシモンと言う人物が率いる艦隊が海賊団を率いるステルテベカー(英語版)を捕らえた[6][7]。彼はハンブルクで100人の部下と共に処刑され、海賊団は翌年には制圧されていった[6]。14世紀にこの辺りを荒らした海賊にゴデキンス、ステルテベカー、モルトケ、マントイフェルなどがいる[8]。
ゼーゴイセン詳細は「ゴイセン」を参照
オランダのプロテスタント(カルヴァン派)の事。八十年戦争の初期に海賊として、スペインやカトリック勢力と戦った。
私掠船詳細は「私掠船」を参照
大航海時代から後の西ヨーロッパで、諸国が海軍力を補うために、民間船に私掠勅許状を与え、敵国の艦船を拿捕することを許して海賊行為を奨励した。このような公認の海賊としてはイギリスのフランシス・ドレークや、フランスのジャン・バール、コルセールたちが有名である。16世紀以降マルタ島を支配した聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)は、ムスリムの船舶に対して組織的に海賊行為を行った。ナポレオン戦争当時にも私掠船は活躍した。ナポレオン1世による大陸封鎖令に協力して、イギリス船を攻撃し拿捕するなどした。
バルバリア海賊詳細は「バルバリア海賊」を参照
バルバリア海岸と呼ばれた北アフリカのアルジェリア、チュニジア、リビアの沿岸部を根拠地として海賊行為を行ったイスラム教徒の船乗りの総称。オスマン帝国の保護を受けており、私掠船の一種ともいえる。その活動範囲は広大で、地中海はもとよりインド洋、バルト海、大西洋、さらにはアメリカ近海、カリブ海にも進出した。また彼らはイギリスのテムズ川をさかのぼり、各村を襲ったという記録もある。さらに1627年にはアイスランドを襲った。実際には地元人よりも、ギリシャやイタリアなどからやってきてイスラムに改宗し、かつての同胞に海賊を働く冒険者たちが数多く含まれた。その一人バルバロス・ハイレッディンは、1538年、プレヴェザの海戦で、スペインを破った。また、1801年には、通行料の支払いを拒絶したアメリカ合衆国とのトラブルがバーバリ戦争に発展した。
カリブ海ポップカルチャーで典型的な海賊のカリカチュア。三角帽子、眼帯、義足、フック(鉤爪)、肩にオウムが特徴の例。詳細は「海賊の黄金時代」および「カリブ海の海賊 (歴史)」を参照
17世紀のカリブ海では1630年頃からバッカニアとよばれる海賊が活動した[9]。バッカニアは当時の西インド諸島の支配勢力であったスペインの船舶を主として狙い、元はトルトゥーガ島のフランス人たちで構成されていたが、徐々にイングランド人やオランダ人といった新興国の人間も加わり、スペインへの略奪行為に勤しんだ。