海禁
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^ 洪武帝に国内海運まで禁ずる意図は無かったが、「下海の禁」を字義どおり解釈した地方政府により沿岸貿易まで禁じられることもあった。1392年にはこれを緩和するよう上奏があり、洪武帝勅栽の下、沿岸貿易を認める決定が下されている[注 4][15]
^ 朝貢使節の持ち込む交易品は国王が明皇帝に贈る「進貢物」と使節団の持ち込む「附搭貨物」に分けられ、進貢物に対しては明皇帝より回賜が反対給付された。貿易の主力は附搭貨物にあったが、こちらはまず明朝が鈔価建てで買い上げを行い(官収買)、朝貢国はその宝鈔(明の紙幣)を使って民間から中国商品を購入した。附搭貨物のうち官収買の残りもまた民間貿易に回された。鈔価建ての官収買は公定価格で行われるものであったが、明代中期には鈔の市価が暴落し、明初の法定価である銀1につき鈔1から、永楽5年には銀1両につき鈔80貫、弘治年間以降は鈔1貫が銀3(0.003両)と3/100にまで下落していた。しかし明朝は鈔価の下落に応じた公定価格の改訂を行わず、明初ほぼそのままに据え置いていた[19]
^ 明初における罰則は杖百と海賊に対するものとしては軽いものであったが、正統年間には正犯は極刑、親族は辺境へ流刑となっていた[24]
^ 明朝は元々銀流通を禁止し代りに宝鈔を流通させようとしていた。しかし宝鈔は市場の信用を得られずに鈔価は暴落を続け1530年代に銀流通禁止は解除された。その後、経済成長や銀納の進行、北辺軍事費の増大などの影響から銀需要は拡大を続けるが、銀資源が枯渇していた明国国内では需要を賄うことが出来ず、嘉靖年間には慢性的な銀不足に陥っていた。

出典^ 山本2002 135頁、檀上2005 145頁
^ 許瀚前掲書、33-34頁
^ a b 英領馬来,緬甸及濠洲に於ける華僑、支那馬来間の交通、明代、P19-20、1941年
^日本から見た東アジアにおける国際経済の成立永積洋子、城西大学大学院研究年報15 ( 2 ) , pp.67 - 73 , 1999-03
^ 佐久間1992 369頁
^ 熊1997 90頁
^ 佐久間1992 197-199頁、熊1997 90頁、檀上2005 147,162頁、上田2005 95頁
^ 檀上2004 10頁
^ 檀上2004 9頁、檀上2005 148頁
^ 佐久間1992 52-53頁、檀上2004 10頁、檀上2005 148頁
^ 上田2005 91頁、岡本2008 52頁
^ 佐久間1992 224頁、檀上2005 149-150頁
^ 檀上2004 22, 33-34頁
^ 佐久間1992 86-87,200頁、熊1997 90頁、檀上2005 151頁
^ 佐久間1992 202頁
^ 佐久間1992 121-122頁、檀上2005 159-163頁、上田2005 152頁
^ 檀上2005 163頁
^ 佐久間1992 22,151頁、檀上2005 164-165頁
^ 佐久間1992 15-20頁
^ 佐久間1992 13-15頁、檀上2005 165頁
^ 佐久間1992 21頁、檀上2005 165頁
^ 佐久間1992 366頁、檀上2005 166-169頁
^ 佐久間1992 362頁、山根1999 71頁、檀上2005 165頁、上田2005 200頁
^ 佐久間1992 35頁、檀上2004 14頁
^ 佐久間1992 227頁、檀上2004 14-15頁、檀上2005 166頁
^ 佐久間 1992 241頁
^ 佐久間1992 279頁、熊1997 113-114頁
^ 佐久間1992 230-238頁
^ 佐久間1992 230-231頁、熊1997 92,96,100頁
^ 佐久間1992 248-249頁、熊1997 103頁、濱島1999 162-163頁、上田2005 199頁
^ 佐久間1992 262頁、熊1997 104-105,108-110頁

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