海禁
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嘉靖年間(1522年 - 1566年)に入ると広州における外国商船受け入れや日明勘合貿易が中断し、密貿易は益々盛んになっていった。1522年に屯門島を不法占領していたポルトガル船が明軍に駆逐されると明朝は広州貿易を禁止する。この措置は1529年に解かれて貿易が再開されるが、来港商船は新たに貢期と勘合の遵守を求められたため目的地を福建・浙江へ移して密貿易に参加した[26]。また1523年に寧波の乱が起こると日明勘合貿易は停止、1536年に再開されるが貢期に大幅な制限を加えられ、それも1551年に大内氏が滅亡すると途絶える。明朝は寧波の乱を契機に海禁の引き締めを行い、違反者を倭寇とみなして取り締まるが出海する者は増加の一途を辿った[27]

明代中期に商品経済が発達する中、物流を海運に支えられながら地域間分業は進み、また貿易を通して海外諸国との経済的連関は強まっていた[28]。しかし広州貿易と日明勘合貿易の中断に加え、嘉靖年間に「不許寸板下海」を合言葉に沿岸交易にも規制が加えられると[注 4]、沿海部住民は生活を圧迫され、出海、密貿易へと追いやられた[29]倭寇の襲撃

さらに16世紀中頃には、石見銀山などの鉱山開発の進行や灰吹法の導入により日本における銀生産量が急増する。明国国内では嘉靖年間には慢性的な銀不足に陥っており[注 8][30]、安価な日本銀は中国人海商のみならずヨーロッパ人も惹きつけ、日明貿易への参加を促した。日明貿易における利潤は通常10倍程度であったと推定されているがこの時期には100倍に上ったともされ、沿海部住民は家業を棄て密貿易に走り、漁船は交易品を積んで沖合で密貿易船と接触、大商は様々な口実を設けては大船を建造して出海し、郷紳達は密貿易船に自身の旗を掲げて政治力を楯に官憲の干渉を防いだ[31]。多くの社会的階層に属する者が参加して密貿易は急速に大規模化し[32]王直徐海ら頭目が束ねる大勢力も出現した。舟山諸島双嶼港や章州月港などの中国東南沿海部各地には密貿易拠点が出現し、博多商人やポルトガル人なども来航する国際貿易港となっていた[33]

明朝はこれらの者達を倭寇(後期倭寇)と見なしていたがその大半は中国人であった。彼等は密貿易に止まらず武装して官兵に抵抗し、時に各地を襲撃して回った。沿海部住民のうち直接密貿易に関わらない者も物資の提供・貨物の運搬等各種サービスを通じてその恩恵を受けており、倭寇に通じて行動を共にした[34]。こうした事態に明朝は1547年に朱?を浙江巡撫に任命し厳格な海禁を実施させた。朱?は双嶼港を襲撃して壊滅させ、李光頭や許棟を逮捕処刑するなど海上粛清を断行し、東南沿海地区を閉鎖した。しかし海商・郷紳等と気脈を通ずる中央官僚の弾劾を受けて1549年に罷免され、自殺に追い込まれる[35]。朱?失脚後、強圧的な取り締まりに対する民衆の反発は嘉靖大倭寇という形で現れ、後期倭寇は最盛期を迎え各地で猛威を奮った。「倭寇#後期倭寇」も参照
海禁の緩和

洪武帝が海禁を導入した直接の目的は倭寇禁圧にあり、それは嘉靖年間においても変わっていなかった。しかし諸外国との貿易を希求する出海者を倭寇・海寇として扱ったため、海禁はその目論みとは裏腹に倭寇跳梁の原因となっていた[36]。嘉靖年間にもこうした認識を持つ識者は存在し、沿海部を中心に海禁廃止を求める開洋論が唱えられて海禁継続派と盛んに論争が繰り広げられた。海禁廃止派が貿易を認めることで密貿易を抑制しようとしたのに対し、海禁継続派はより厳格な海禁を行うことで沿海部に秩序を再構築しようと主張したが、海禁継続派には洪武帝以来の祖法の墨守を重視する者の他に一部の沿海部郷紳層が加わっていた。地方官憲に影響力を持つ郷紳達にとって海禁は貿易の障壁ではなく、むしろ競争相手を排除し独占的な貿易を通じて巨利をもたらしてくれる政策だったのである。しかし朱?の徹底的な取り締まりは彼等にも打撃を与え、郷紳達は朱?を失脚させ自殺へと追い込む。朱?失脚後には敢えて海禁を主張するものも絶えて開洋論が優勢となり、1567年に福建巡撫塗沢民が月港開港を上奏すると明朝は海禁を緩和し章州月港から商人の出海を認めた[37]。これは海禁の完全な廃止ではなかったが、明将戚継光らの活躍や豊臣秀吉海賊停止令等の影響と相俟って後期倭寇は沈静化していった[38]

月港開港により、中国人海商は呂宋東洋21港、暹羅旧港柬埔寨西洋22港の東南アジア43港と台湾2港への渡航が認められた。出国に際しては文引と呼ばれる海外渡航許可証の所得が義務付けられ、新たに設置された海防館が出入国の監督に当たった。文引には姓名・本貫・積荷・渡航先が記載され、渡航先毎に年間発給枚数が定められていた。乗員数も船の大きさに応じて上限があり、出港時期と帰港期限も定められ国外での越冬は許されなかった。数種類に及ぶ関税や文引発給手数料なども徴収されたが月港から出国する者は年々増加し、関開港初年度に銀3000両であった税収入は1582年には2万両に達していた。出国先は呂宋が最も多く、スペイン側の記録によると1575年には12 - 15隻、1599年には30隻が来航しており、これらは主にメキシコ銀を持ち帰った。1592年の朝鮮出兵により一時停止されるが翌年からまた再開された[39]

明代には日本や琉球への渡航は認められることはなかった。しかし禁令を犯しても対日貿易を続ける者は絶えず、徳川幕府が朱印状を与えて中国船を招致したこともあって長崎来港中国船は年間70-80隻に及んだ[40]。後に清朝が海禁を敷いて弱体化を図る鄭氏勢力も、元はこの対日密貿易を行う海商勢力の一部であった。

ところで、明初より実施されてきた海禁政策ではあるが、「下海通蕃の禁」「海禁」という用語・概念の形成は16世紀のことである。16世紀の海禁存廃論争の中で論者達は当時の沿海部の状況を「下海通蕃」、それを禁ずる弘治問刑条例に示される政策を「下海通蕃の禁」と呼び表し、その略称として「海禁」という用語・概念を形成していった[41]。そのため海禁という用語は海禁政策を導入した洪武期あるいは「海禁=朝貢体制」が有効に機能していた永楽期というよりも、後期倭寇が跳梁していた16世紀の政策を反映している。

論者達が私的に呼び交わしていた「海禁」という用語は、1587年に刊行された『万暦会典』に「海禁」の一項が立てられたことによって国家公認の政策用語となる。この項は弘治問刑条例を元とし、月港開港に対応して号票(文引)携帯者を海禁の対象外とする例外規定が付け加えられている。この海禁政策は明末まで続いた。
清代の海禁

清代海禁関連年表1644年清入関
1655年海禁令
1656年海禁令
1661年遷界令
1662年海禁強化
鄭氏台湾占領
1667年海禁令
1668年外国商船来航禁止
1672年海禁令
1673年海禁令
三藩の乱勃発
1679年マカオの陸路交易の許可
1680年海禁緩和
1681年三藩の乱終息
1683年鄭氏政権降服
展界開始
1684年海禁処分の停止
廈門、広州に海関設置
外国商船の来航許可


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