中世末・江戸時代初頭になると、前代の厭世的思想の裏返しとして享楽的に生きるべき世の中と逆の意味で使われるようになる[18][注釈 7][注釈 8][注釈 9]。そこから「浮世絵」に代表されるように当代流行の風俗を指す「当世風」といった意味でも用いられるようになる[18]。
『柳亭記』(1826・文政9年頃)において、「浮世といふに二つあり。一つは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一つの浮世は今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり。」と説明している[18][24]。
歴史岩佐又兵衛『洛中洛外図屏風(舟木本)』右隻6扇より。1615年頃。国宝。歌舞伎踊りが見られる[注釈 10]。「浮世絵師一覧」も参照
諏訪(2008)[25]に従って、以下の4期に分けて説明する[注釈 11]。
江戸前期 ? 慶長・元和年間(1596年-1624年)から宝暦年間(1751年-1764年)、約150年
江戸中期 - 明和元年(1764年)から寛政年間(1789年-1801年)、約35年
江戸後期 - 享和年間(1801年-1804年)から慶応年間(1865年-1868年)、約70年
明治以降 - 明治元年(1868年)以降
江戸前期湯女図、MOA美術館蔵。重要文化財。
最初期の浮世絵には、版画がなく、肉筆画のみであった。桃山期の「洛中洛外図屏風」と比べ、岩佐又兵衛の同屏風(通称「舟木本」。慶長19年-元和元年〈1614-15年[28]〉)は、民衆の描写が目立つようになり、そこから寛永年間(1624-44年)頃に「彦根屏風」「松浦(まつら[注釈 12])屏風[30]」(3点とも国宝)といった、当世人物風俗を全面に出す作品が生まれた[31][32][33][34]。「湯女図」(MOA美術館蔵。重要文化財)での、左から三番目の桜花柄小袖の女に見る、体を「く」の字に折る姿勢は、後の菱川師宣や、懐月堂派らの見返り美人図の原型になったとの指摘がある[35]。
美人画は、風俗画からの発展だけでなく、禅寺にあった明朝の楊貴妃像を日本女性にあてはめた説があるが[36]、落款に「日本絵師」「大和絵師」と書したのが、菱川師宣である。安房国の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身。「見返り美人」(東京国立博物館蔵)に代表される掛物(掛け軸)のほかに、巻子(かんす。まきもの。)、浮世草子、枕絵などの版本と、多彩な活動をした。師宣の登場は、17世紀後半に、江戸の文化が、上方のそれに肩を並べる契機となる[37]。版本は、最初は墨一色だが、後期作品として、墨摺本に筆で彩色する「丹絵」が表れ、一枚摺りも登場する[38][39]。師宣没後、奥村政信は、赤色染料を筆彩した紅絵や、墨に膠を多く混ぜ、光沢を出す漆絵、柱絵に浮絵も創始し、2・3色摺りを可能にした紅摺絵や、拓本を応用した、白黒反転の石摺絵の創始にもかかわった。そして、絵師だけでなく、版元「奥村や」を運営し、自由な作画と販売経路を得た。また、自身の作品を取り扱うだけでなく、他の版元と商品を卸しあい、商機を広めた。活動期間も半世紀に渡った[40][41][42]。
歌舞伎は江戸初期に生まれ、幕府の禁令もあり、成人男性のみが演ずる形になった[43]。歌舞伎の役者絵に特化したのが鳥居派である。